純な心

 

 

フローベールの「三つのコント」の中の一つで、「純な心」というコントがある。それが映画化され、日本に帰る前日に公開された。朝一番に見に行った。

 最初の時間がわからないので、以前に見た「ピアフ」が9時45分からだったので、その時間に行くと、11時5分からだった。ミッテラン図書館に行き、図書館の案内をビデオで見て時間を潰す。

純な心と日本語で訳されているが、シンプルなという言葉なので、映画では、直情的な心に描いている。

 本を読んで、自分なりのイメージが出来ているので、、映画は、始めに違和感を感じたけれど、次第に引っ込まれ、お世話していたお嬢様が修道院で亡くなった時の描写は、映画の方が表現力に富んでいて、涙が止まらずに困ったほどだったが、最後のジーンは、文学でしか表現できないと思い知らされるほど、映像では表現不足で終わってしまった。 フェリシテ(忠実)と言う名の女性の生涯を描いた作品で、とても単純な心で、直情のままに、ひたすらに忠実に、人から見れば、可愛そうな、人生のように思える一生であっても、ひらすらに、情熱(パッション)に従って、命一杯に生きた人間を描いている。

「ボヴァリー夫人」とは対局のように思われるかもしれないが、理性とは無縁、という点に関しては、どちらも同じ。情熱的な関係に憧れを抱きながら、現実に幻滅するボバリー夫人と、希望のない環境にありながら、情熱に燃えて生きたフェリシテと、同じ女性性というものの現実を描いている点において、同じテーマ性を持っているのでは?

 ミッテラン図書

 

私の好きな「純な心」が映画化され、パリの最後の日に公開されたというのも、偶然ではないように思われる。

 愛情を注いだ甥のルールーが、南米で亡くなり、隣家のオウムが南米産

だと聞くと、甥が、フェリシテの元に、戻って来たと思う、おうむ(ペロッケ)がフェリシテになつく様子、甥のルールーとフェリシテ の愛情関係、亡くなったお嬢様の体を清める様子などは、文字を超えて、映像が痛いほど描ききっていた。

こうして書きながらも、涙があふれて止まらない。