延命処置

  

  豊中の病院にいる叔母を見舞った。

顔色も良く、元気そうだった。寝たきりで3年近くになる。

五木寛之の「選ぶ力」という新書本に中に、延命処置についての

疑問を呈してる個所がある。

叔母も、鼻腔経管で、ミキシングした栄養を入れながら生きながらえている。

周りのベッドには、五木寛之がいうように、ムンクの絵画のように、硬直した手と、

口を開けた状態でベッドにくぎ付けになっている老人がほとんどだ。

私もそのような状態で生きていたいとは思わない。

母の場合は、経鼻で栄養を入れることに違和感がなく、食べることのほうが苦痛のようだ。

プリンやコーヒーなどは、口から食べても大丈夫なのだが、好きだったシュークリームも、

ほんの少し口に入れるだけ。

食べることには興味がない。

元気な顔をしているのは、野球のシーズンが来たからだ。

ベッドの傍にあるテレビで、デイゲームを見ていた。

叔母は、早く死にたいとはいわなかった。気分が良かったのだろう。

私が持って行った、ココアを少し飲んで「甘いわあ。甘すぎるわ。」と言いながらも、

ガラスの器に入れたココアを全部飲んでくれた。残りのココアを飲んでみると確かにすごく甘かった。

胃婁や経鼻栄養の患者は、食べ物の逆流で熱が出たり、肺炎になりやすい。

叔母は病院にいるので、そのたびの処置をしているので、熱が出ては、また回復している。

まだ、話を出来るし、テレビの野球を楽しんでもいる。

五木寛之は90歳を過ぎた老人が、「出来ることなら長生きさせてほしい。」と言っているのをテレビで見て、自分の予想に反した答えだったという。

 叔母も、時には、早くお迎えが来てくれないかしら、と言い、気分の良い時には、野球の話や、思い出話をして笑っている。

「また来るわね。」といい、

「また来てね、」と握手をするために手を差し出す。

人間は、生き物なのだ。

生きようとする力が自然に働いているような気がする。

私だって、その時の、その状態になってみなければわからない。

ベッドでムンクのように、心の叫びを叫んでいる老人は「出来ることなら生かして欲しい。」

と声にならない声を発しているのではないだろうか。

自然死は苦しまない、と言われるが、人間が他の動物と違うのは、「科学の進歩」に頼ろうとする力が備わってしまっていることだと思う。痛い目をしても、良くなりたい、なれるはだ、という欲望が植えつけられているのではないだろうか。