友人、イエス

 

    

 去年の暮れ、「北の国から」を見るのが楽しみだった。

今年はもうないのかな、と時折、番組表を見る。

 倉本聰の作品は暗いから、暗いのが苦手な人には、よけいに重くのしかかる

かもしれない。やりきれない人に、追い打ちをかけるよう。

 私のような、脳天気は、極寒の北海道の、猛吹雪にさえ、ロマンティックな妄想を抱く。

 フィルピンの最下層の子供達の為の保育所に力を入れている、友人からの年賀状に、

去年の大半を、悪性腫瘍と戦って、抗がん剤の照射を続けていたと書かれていた。

 3月の震災の後、朝日新聞への投稿で、ボランティアの在り方を書いていたので、元気で忙しいのだとばかり思っていた。

 長期で来れば?と勧められたのは、5年も前の事で、彼女は、現地に根付いて、ボランティア活動に励んでいた。

 辛いときに、何故知らせてくれないの?と思ったことは、親しい友人の中にも。

 元気になってからの報告で知らされる。

 本当に大変な時には、人は孤独でいる方が、勇気がわき、がんばれるのかもしれない。 全くの孤独は、耐えられないけれど、肉親が側で支えてくれる場合、友人はいらない。

 元気になって、会える喜びを分かち合う時に、友人は必要なのだと思う。

 共が皆、我より偉くみえし日に 花を買い来て妻と楽しむ

 元気な姿を見せて、病院を見舞われると、気持ちが萎えて、辛さが増すのではないだろうか。妻だから、親だから、自分の無様さ、本性をさらけ出した、いわゆる骨肉の争いをくぐり抜けた存在だから、ありのまま、苦しみをゆだねて、助けを求められるのではないだろうか。

  そういう意味から、信仰を持つ人の強さを思う。

  暮れから、私は、賛美歌を歌いながら、掃除をしていた。一人で、新年を迎えて、

 ぼそぼそと、食していると、この歌を歌っていた。

「いつくしみ深き、友なるイエスは」

 私のはいいいかげんである。信仰心がないのに、この賛美歌が

とても好きなのだ。

 大学時代、チャペルの時間が好きで、さぼったことはあまりない。

 キリスト経概説というのは、教養課程、専門で、キリスト教学の授業を受けた。

 年賀をもらった友人は、子供の頃からのクリスチャンで、在学中から、ボランティア活動をしていた。

 ハンセンシ病の島に、夏休みに参加していた。

 3人の仲の良かった友人のうちの、もう一人は、クリスチャンと結婚して、クリスチャンになっている。

 彼女も、知らされていなかったらしいが、メールに「ありのまま」と書いている。

 ありのまま、そのままに、病気を受け入れ、病気と闘い、どんなときにも、寄り添って

いる、「友であるイエス」と共に、希望を託して生きて行く。そういう強さを、信仰が支えているのだろう。