映画「一枚の手紙」から

 

  

 震災から、6ヶ月の9月11日は、ニューヨークの9,11の10年目の日でもあった。 震災は、自然災害だと言われるが、津波の対策がなされていたら、被害はもっと防げたはず。ニューヨークの象徴であった、ワールドセンターに、飛行機が衝突、多くの犠牲者を出した。

  福島原発の事故は、かつて、アメリカに投下された原爆の何百倍もの放射能を放出している。校舎能汚染から、子供達を守れるのだろうか。すでに多大の汚染で、子供達は体内に被爆してしまっている、かつては死の灰よ呼ばれた、放射能を、これから先、消し去ることは不可能だと言われている。

  

 日曜日のお昼から、やっている居酒屋がある。梅田の地下街にある、庶民の味方みたいな、安価で、美味しいものと、お酒が飲める。

 いつも、並んで席が空くのを待っている人達がいる。比較的回転が速く、15分も待つ気で居れば座れる。

  平和だ。ここに座って入る人達は、災害に突然襲われることを想像していない。

 ワールドセンターの中で、働いている人達だって、いつもと同じ生活をして、コーヒーを飲み、家族に電話をかけ、笑って話あっていただろう。

  

  昨日、友人と別れてから、梅田のテアトルで上映中の「一枚の手紙」を見た。

 テレビで、この映画が好評で、何日も前から予約を取らないと、見られないくらいだ、と聞いていた。

 幸い、一席空いていて、時間まで、1時間ほど待っている間に、茶屋町に出来た、丸善の書店に。

 芸術書のコーナーに、辻さんという画家の画集があった。一度、個展を見に行ったことがあった。

 和気さんも、吉田さんの画集もなかった。

 本当に大切なものは、隠されていて、見えないのだよ、「星の王子様」の言葉がふっと。

 テアトルに戻ると、すでに開場になっていて、満席だった。通常は、廊下側の席を取るのだけど、その席は、真ん中で、一旦入ると、途中で出にくい。

 ビールを2杯も飲んだので、トイレ大丈夫かと、心配になる。

 映画が始まると、近くで、もうすでに、すすり泣きの声がしている。 観客はほとんど、年配の人ばかり。戦争を記憶に残している人なのだろうか。

映画は深刻に作られてはいなかった。 笑いを誘う場面も幾つか、時折、場内から笑いが聞こえた。深厚な内容なのだけれど、滑稽でもあるのだ。

 人間が生きていくということは、そういう風なのだ。リアリズムを追求した映画で、

99才という高齢が、アルカイックな心境を映画に反映させている。

 大竹しのぶの演技が、大げさで、ヒステリックな声で、演劇的、かつ音楽的要素を加えている。

映画である以上、観客を楽しませてくれるものでなければならない。そして、何も残らない映画を、現実からの逃避と言うなら、この映画のリアリズムは、現実を踏まえての、希望の光を投げかけている。

 戦争は憎むべきものであることは、平和を願う人間なら、当然のことだけれど、日常の生活の中で、身に起こってくる事、戦争、同時多発テロ、東大震災、原発の事故、それらは、人間が自ら作り出す、悪の局面で、その犠牲になる庶民や弱き人々は、ただ、それを受けざるを得ない。人間は弱い。なすすべもなく打ち負かされる。

 けれど、だから人間は、それで死滅していくのか、というと、そうではない。

人間は強い。打たれても、打たれても、這い上がり、希望に向かって、生きて行く。それが人間というものだ、とこの映画は、語っている。

 どんなに悲惨な状況にあっても、人は笑えるのだ、おかしくて笑い転げることが出来るのだ、ということ。

 焼けた家後に、麦を植える。踏まれて、育つ麦は、人間の生き様を象徴している。

 やがて、実り豊に実をつける黄金の麦。