高峰秀子の流儀

 

 

昨年の暮れに、高峰秀子さんが亡くなった。

高峰秀子著書「私の渡世日記』上下2巻と、斉藤明美著『高峰秀子の流儀」を、友人から借りて、読んでいたので、なんだか、人ごととは思えない。私の渡世日記 は、まだ上しか読んでいないが、斉藤明美の『高峰秀子の流儀」は、私生活でも親しかった人が、彼女の夫婦生活や日常から、高峰秀子の全体像を描いていて、読みやすさも手伝って、一気に読ませてもらった。

 高峰秀子が、かつて、NHKの放送大学に入学した時、なんで?と思ったけれど、学校に行って、勉強していない、知識がない、という劣等感は、彼女の心に死ぬまで、染みついていたようだ。

 彼女の読書熱は、人並みではなく、朝から、ベッドの中で、一日中本を読んで過ごすという、本の虫だった。

 勉強がしたい、知識を得たい、勉強することへの執着以外に、彼女は、何にも未練や、欲望を持たない人で、あっさりして、潔い人だったよう。

女優にも、全く未練がなく、むしろ女優をやめたくてしかたなかったので、多大の借金を支払い、自由になって、松山善三に食べさせてもらえるめどがつくと、あっさりと女優を引退した。その後の私的生活において、高峰秀子は、一人の人間として、勉学と、読書、随筆の執筆、夫の為に料理を造り、ハワイの別荘との、往復の生活だった。

 何事にもこだわらない。物を捨て、思い出を引きずらない、

「心の中のノートに、ごちゃごちゃと書き込まない。いつも真っ白にしておきたい。」

 「いちいちこだわっていると、女優なんかしてこられなかったからね。」

いつものように淡々と言うと、高峰さんは煙草に火を付けた。

「こだわる」という言葉は、さわる、差し障る、妨げとなる。気にしなくてもよいような些細なことにとらわれる。拘泥する。

著者、斉藤明美は、

「こだわることによって、人は心乱れ、右往左往し、ストレスを溜め、自分だけでなく、他人までも苦しめる。」と。

 見事に、潔い生き方を貫いた、高峰秀子は、肺癌で亡くなった。煙草を離せない人だった。身体にも、こだわらない人だった。

同じような生き方をした人じゃないかな、と池内淳子という女優を思った。

彼女も、潔さ、こだわりのなさを、旧知の人達が語っていた。

やはり、ヘビースモーカーで、彼女の死因も肺癌だった。

 人から慕われ、好かれる人は、こだわらない人なのだろう。こだわらない人は、心を真っ新にしているので、誰でも、何でも受け入れることが出来る。人の良い点と、知恵を、力を吸収して、そのたびに、豊かな人間に成長していくのだろう。

そうありたいものだ、と願うのに、そうなれないのは、私のこだわりに違いない。

 

テレビで、料理人、道場さんが、80才に、料理界の人達を招待して、今までの料理人生の節目として、料理を造り、食してもらった。その後、道場さんは、自分の半身とも言えるような、品書きや、思いでも品々を燃やしていた。

 これから、真っ白にして、新しい料理探求の旅にでるために、と。