携帯に、友人からのメールが入っていた。
友人のお父さんが亡くなられたとの知らせだった。
、日曜日に、入院中のお父さんを見舞って、側に
寄り添うことを 毎週かかさず続けて来られた。入院以前には、
毎週、土日にお父さんのマンションに泊まって、便の世話をして
来られた。
91才で、老衰だというから、これ以上は、なすべくもなかったとはいえ、
その悲しみの深さは、年齢や寿命とは関係ないだろう。
寄り添い、悲しみを分かちあう、家族がいることは、大きな支えになると思う。
悲しい時こそ、孤独でいることは耐え難い。私は?と思うと、考える余裕もない。
人間は、皆、この道を免れるわけにはいかない。やがて来る確かな道なのだけど、
そのことを考えないでいるから、今日も暢気に生きていられるのだ。
いつまで生きられるか、わからない、死期を覚悟しなければならない人でも、今日、笑って、楽しい会話を交わして居る時には、きっと、癌の事は、頭から消えているはずだ。 忘れているから、笑っていられる。楽しい、と感じていられるのだ。
その時間を、私は永遠の時間だ、と思っている。
現実が、どれほど辛く、苦しいのものであっても、笑っていられる時間がある。人間は決して、悲しみの中に、生きているものではない。悲しみに埋没してしまったら、生きる力は失せるのだ、と思う。
どんな状態の中にあろうとも、それを忘れ、笑っていられたり、話しあい、語りかけている時間があればこそ、生きているのだと思う。生きている時間、それは永遠の時間なのだ、と思う。
母は、金曜日の音楽療法が終わって、ホームの入居者達となにやら話をしながら、エレベーターの前で、笑っている。
私が来たのを、窓の間から、見つけたらしい。扉を開けてもらうと、母は笑って、『良く来てくれたわね。」と喜んではくれるものの、部屋に入ると、すぐに、私が帰ることを心配して、泊まって行くように、と何度も繰り返す。そうでなければ、すぐに帰ることを心配する。今来た所よ、と言っても、暗くなるとあぶないから、と送り出そうとする。
そのうちに、母は心配のあまり、怒り出す。
「こつんとやられて、死んでしまうから。」とか、「車にひかれて死んでしまう。」とか、
『家で1人でいると、あぶない。強盗に襲われる。」
母は、死んでしまうことが、恐ろしくてたまらない。おそらく、1人部屋にいると、死ぬ恐怖に襲われるのだろう。死期が確実に近づいている、ということは、年老いた母に派、紛れもない事実として、思考の憂鬱な時間だ。
母は、死ぬ前に、家に帰って、しておかなければならないと、絶えず、タンスの中の整理を繰り返し、ボードの写真を外したり、部屋にいる時は、考え、そして夢中になって、作業をしている。
私が行くと、母がダイニングルームで、百人一首や、風船あげ、塗り絵に、ちぎり絵など、ホームの入居者や看護師さんと、楽しそうに、笑っている姿を、そっとわからないように、外から見ていることが多い。
母はそういう時は、本当に楽しそうだ。そのこと事態、すぐに忘れて、記憶にとどめることは出来ないのだけど、それが、母から、死を遠ざけ、生きている喜びに浸ることの出来る、永遠の時間なのだ。
私が母を心配するよりも、遙かに、母は、私が一人でいることを心配してくれている。それほど、母も、一人で部屋にいて死について考える時には、孤独を感じているいるのだ。死ぬことへの恐怖も抱いているのだろう。
あうんの呼吸は、あははと笑って、話しをすること、生まれることであり、口をつぐんで、息を止める。思考することでもあり、死することでも。