後頭部投打

 一人の夕食

 土曜日、一日中家にいて、コンピューターの前に座っていた。

2月21日に、吉田さんのご家族と親しい人達で、お墓まいりされるという

ことを、友人から聞いた。私には、連絡がないけけれど、友人はパリに滞在する間なので、出席するといわれるので、お花を頼んだ。

 飛行機があれば、私も参加しようか、と飛行機をチェックしたりしていたら、時間が5時をまわった。

 明日は、友人とあう約束がある。多分おしゃべりがはずんで、コナミに行く時間はないだろう。寒いけど行こうと、階下に降りた。パリに行こうかな、と考えながら。

 下に降りきった所で、床に脱いでいた、ダウンのつるっとした生地に、掃いていたスリッパがすべって、そのまま転倒、会談の柱の角の部分に、まともに、ぶつけた。

あ、やってしまった。ものすごく痛い。後頭部だ。そのまましばらくじっとしていた。

 気を失いのでは?という不安。頭部内が出血して、充満するのではないか。これで死ぬとしたら、こんなにあたりをちらかしたままで、どうしよう。しばらくして、目を開けてみる。見える。そろっと起きあがる。身体が冷たくて、寒い。痛い。

 コナミにはいけない。今日は土曜日、夕方だから、病院はあいていない。

じっとしているしかない。これからどういうことが起こってくるのだろうか。

 しばらくして落ちついてから、コンピューターを開いて、後頭部の打撲について調べた。 後頭部の高いあたりが、ふくれてきている。頭はしびれて痛い。が、頭は幾重にも保護されているので、内部まで損傷していることは少ない、と書いている。

  様子を見るしかない。今、書いている間も、手が震えている。頭がずきずき痛む。

 動き回るよりも、じっとして様子を見る方が良いだろう。お風呂はやめておこう。

 テレビが、ぼやけて見える。二重に見えている。

 怪我をするまで、そうなるとはつゆ知らず。のんきな事を考えている。

 昼食を食べ、映画館の上映時間を見ていたら、友人から電話がかかった。元気で、とりとめのない話をして、笑っていた。

 彼女は、私が長生きするわ、という。一番長生きする、と言う。

「 私はそうは思わないのよ。父に似ていると思うの。体質も。母とは違うわ。」

 「長生きするわよ。保証するわ。」と彼女

「保証されても。本人が一番知っているのよ。」

 そんな話をしながら、話は終わった。あれから、彼女は、散歩に出たのかな。

 父は、御大師さんと同じ、1月21日の生まれ。誕生日を控えた18日に、会社近くの飯屋で、昼食を終えて、会社の2階にある事務所で、郵便物を取って、片手で郵便物の束を持ち、片方でどこから来たのかを見ながら、三階へ上っていく途中、真っ逆さまに転倒し、後頭部を打ち付けた。スリッパを履いていた。周りは血の海、父はまだ意識があり、救急車で病院に入った時にも、意識はあった。吐き気がするので、父は母に、吐きたい、というメッセージを手で送っていた、という。救急治療室で、父は意識不明になった。

 翌日、家族を集めて、医者は、今夜が山だと伝えた。アメリカにいる息子に電話をした。 その夜は、私が父に付き添った。

夜中、医者が見回りに来て、今夜持たないのでしょう、と言った。

血圧が下がってきた。

私は父の耳もとで、何度も何度も大きな声で呼びかけた。

「お父さん、頑張って。」息子が帰ってくるのよ、と何度も呼んだ。

すると、父の血圧がまた上がり始めた。顔色が良くなって行った。

父の頭は、大入道のように膨れあがっていいる。脳内が壊れているので、どうしようもない、と言われている。

 医者は、「どうしましょう。」と家族に聞いていた。つまり、器具をはずすかどうか。

「出来るだけのことをお願いします。」

その夜、父は、数時間の命から、奇跡的に13日間、持ちこたえた。息子が寄り添い、父の手をさすり、泣いていた。

父の目にも、涙がにじんでいた。父は泣いていた。父は、一生懸命に頑張ったのだと思う。

息子が、アメリカに帰る日、飛行機が、飛び立つ時間に、父は息を引きとった。

だから、口頭部をがーんを打ち付けた時、致命傷になるのではないか、という恐れが走った。 

うかつだった。怪我をする婆場合、うかつなこと、避けられることが多い。父の場合も、三階に上がってから、見れば、転倒することはなかった。父の性格がそうさせた。

 いらちなのだ。気がせかせかしている。

私も、父に似ている。うかつなのだ。そのあたりに、服を脱いで、ほってある。片づけておけば。ふわふわの底のすべる防寒スリッパを履いていた。普段から、すべるのはわかっていた。するする、するする。スキーみたいだと楽しんで使っていた。馬鹿な。

 

 後の祭り、祭りの多いこと、多いこと。