煙草

 

 

煙草は、やめられないのではなく、やめる気がないのだと思う。先日、家に集まった人達の煙草で、翌日部屋に煙草の匂いが染みついて、家中の窓を開けても、匂いがなかなか取れなかった。屋内禁煙を宣言させてもらった。愛煙家でなければ、狭い空間で、何人も煙草を吸う事を許容して迎える人はいない。健康にも悪い。お料理は不味くなる。白壁が黄色く変色するのは嫌だし、大切な絵画に色がついたら大変だ。

 最近、料理店や割烹居酒屋に行くと、煙草の匂いが、あまりつかなくなった。換気に気をつけるようになったのか、煙草を吸う人が少ないのだろうか。

以前は、洋服も髪の毛も、帰ると匂いがついて、洗わないと取れなかった。

吸っている本人は、迷惑をかけている気はない。嫌煙されるのを被害者意識で受け止めているだろう。嫌煙権なるものが市民権を得るようになって、喫煙者は、公共の場から締め出されるようになり、喫煙者達は、喫煙所に隔離されるようになった。

食事会に呼ばれる友人の家でも、以前はまだ喫煙する人がいたけれど、屋内禁煙を言い渡されて、愛煙家は我慢できなくなると、庭に出て吸っている。夜の闇にホタルが光る。

先日のうどんパーティーでも、庭に出て喫煙している人がいた。ホタルは年中、飛んでいる。

アメリカでは、煙草を吸う人は、随分少なくなった。煙草代が千円に上がって、とても気軽に吸えるような状態ではない、というのも大きな要因だけど、健康に敏感でいるのがスマートだとされるのアメリカ人達に取って、喫煙はスマートではない、という理由からだそう。

 

 叔母は、長年のヘビースモーカーだ。癌の手術をしてもやめるつもりはさらさらない。手術後に、点滴棒を引っ張って、喫煙所まで行っていた。骨祖症で、腰がやられて長く入院した時にも、煙草を吸いに、喫煙所まで、よろよろと歩いて行った。煙草が、カルシウムを破壊するのが良くないと医者からやめるように言われても、やめる気はない。たとえ死んでも、煙草はやめるつもりはないのか、煙草が悪いはずはないと確信しているのか、煙草と生きることは切り離せないようだ。

 

以前に、舌癌になった人が、辛い放射線を我慢するのは、煙草を吸うためだと言っていた。それほど、彼女に取って煙草は、なくてはならないものなのだろうか。

 私はそうではないような気がする。やめる気がないから、やめないのだ。居直りと、楽観さがあるような気がする。「生きていても仕方がないわ。早く死んだ方がましだわ。」と口で言っているけれど、本意ではないような気がする。

たばこなんて、やめる気があれば、いつでもやめられる。物事のほとんどのものは、そういうもの。気があるか、ないか。意思があるか、ないか。