母の魔力

 

 

 車椅子の老人は、全く無表情のまま、反応を示さない。奥さんが付き添って散歩している時もあり、息子さんも良く来られていた。じっとだまったまま、老人の車椅子を押し、照りつける中庭で、そばに立っている。反応がないのだと思っていた。手足は細い棒のようになっている。息子さんはいつも無言のまま、静かに寄り添っている。

 

部屋の並びに、脳梗塞で入院している老人は、痰がからんで食事が取れないので、胃に穴をあける手術をした。食べたいと言うのが辛いと、奥さんは、車椅子を押して廊下を何度も行き来して散歩しながらおっしゃる。早いもので、もうひと月が経った。今まで泊まり込みで世話して来られた。二人とも85歳だ。

 その老人は、私達には言葉は聞き取れないが、奥さんには、うーというだけで、手に取るようにわかる。

母の髪の毛が真っ白なのを、綺麗だと言っているのだそう。母は、その老人に会うと、ハンサムなお父さん、早く元気になってください。」と言って、手を取ってあげるのが日課になっている。遠くの方から、老人は、母を見ると、手を挙げて挨拶するようになっている。

 二人の老人の奥さん達は、すれ違うと良く話をするらしく、今日は、その二組と、母の手を取って散歩する私達と出会った。3か月でもうすぐ病院を出ないといけない無表情な老人は、有馬の温泉病院に行くそうだ。そこを除いて、どこも長期で置いてくれる病院はない。週に2回温泉に入れてもらえるから、と奥さんは言われる。以前に、病院を利用していた友人達からの評判を言うつもりはない。藁をもつかむ思いで、そこに落ちつかれるのだから。

 

 二人とも、胃に穴を開け、栄養はそこからしか取れない状態で、奥さん通し、共通の話ができる。二組とも芦屋の住人だ。

 ひと月になる老人は、宮地病院への転移を条件に、奥さんは、胃の手術に同意された。宮地病院に転移するには、入院後2か月以内でないとだめだそうだ。医療行政の貧しさに憤懣をかくせない奥さん達。

 母は、いつものように、手を差し伸べる老人の手を取り、「早く元気になってね。」と言うと、もう一人の奥さんが、「私の主人にもしてあげて。手を握ってあげて」と頼まれた。

母が、無表情の老人の前に行き、手を取って、同じように「早く元気になってくださいね。きっと良くなりますよ。」と声をかけると、全く無表情だった老人の顔が笑顔になった。

「まあ、初めてみましたわ。笑っておられる。」

実際、私もあんな風に笑顔になった老人を見てびっくりした。

母の威力はすごい、と思う。

奥さん達は、もう一度してあげてと母に頼む。そのたびに、笑顔が現れる。

母は、「可哀そう」との思いで、自然に手を取っているのだが、男は男、いつまでたっても、女性に手を取られるのは嬉しいのだろう。こんなことで、本当に元気になってもらえれば、母だって嬉しいに違いない。