看板に偽りあり?

 

 

思えば、母のリウマチは、膝に水が溜まり、膨れ上がっていた時にも、兆候が出ていたように思われる。微熱があり、歩くのが困難になり、膝が膨れあがり、足首も腫れていた。グルコミサンを飲むようになってから、歩けるようになっていたが、いつも熱っぽかった。手を取って歩くと、熱いなあ、と思う事が良くあった。最近になって、触ると痛がり、トイレに立つ事もままならず、朝のデーセンターのお迎えに、介添えを頼んで、玄関まで、お尻をつけたまま、いざってしか動けなったのが、センターでは元気になっていた、というので、リウマチの兆候ではないかと思うのが普通なのだ。親指の関節がおかしかったが、手を遣いすぎたのでは?との医者の見方、その次に、手が痛くなって、石灰が貯まっていて、それで炎症が起こっているとの判断、微熱はずっとあったものの、炎症があるから、と。確かに、脱水症状があれば、炎症が高くなる。高熱が出て、内臓関係では?と紹介されて、入院してからは、内臓には異常はないから、石灰による、疑似痛風なので、抗生物質で炎症を抑えようということになり、肺に無機肺があるので、肺炎だということになり、何回か、抗生物質を強力なものに変えても、一向に炎症は下がらない。やっと腰をあげてくれた、整形外科医が、リウマチの検査をしてくれて、陽性反応が出た。そのころになると、赤血球が減少し、貧血状態である。炎症が長引けば、こうなるそうだ。 今朝、母の手の関節が腫れて、節が太くなっている。靴は足が膨れて履けなくなっている。

 病院には、リウマチの専門医はいない。リウマチという看板をかけている医者は多いが、母の場合、膝の時から、リウマチの看板をかけている医者ばかり。病院では、今でも、その疑いがある、というだけで、判定を下したわけではない。

 石灰の炎症だと判断した医者は、母が認知症だから、と痛いと言っていることにまで、疑問を持っていた。神経痛のような痛さがあって、触れると痛いと言っても信用していないような感じも受けた。

 朝の痛がりようを実際に見ていない人は、昼間から夕方にかけて元気なのでわからない。神経が他に行くと、痛みの感覚が消えるので、よけいにわからない。

昨日、看護学生と交代するのに、病室に行くと、妹が来ていた、一緒に5階にある売店に行って来た後で、部屋はクーラーで寒いと思い、消そうとすると、母が熱いと言ってパジャマを脱ごうとしたので、入れているのだと言う。歩いて運動したので、熱くなったのだろう。

母は喜々として、冷蔵庫の中のものを出し、戸棚の中のものを出し、イカリの紙袋と、もう一つの紙袋に分けて、入れて、重くないかを持って確かめている。

 夕食にお造りとお寿司、鉄分にプルーンを買って持って行ったものも。おまけに値札を見て「安物で悪いのだけど。」と恐縮しながら、袋に入れている。元気で動き回っている。

 看護学生も驚いている。朝とのギャップの激しさ。私といる時とは大違いなので、妹に来てもらっている方が、母の回復は早いのではと思う。

夕食に、入院後初めて、お造りとお寿司を食べてもらったが、二切れとお造りを食べただけ。

薬が変更になることを告げに来た、薬剤師が、薬を飲むと、食欲が増して、肥る傾向に、というので、それは嬉しいこと。

 帰り際、母がそこまで送って行くといつものように。たまたま看護婦さんがいて、少しだけ歩く。看護婦さんが、「お母さんやね。」

「弟さんが来ると、コーヒーを入れようと一生懸命になっていますよ。」

母は、弟と妹には、特別の可愛いさ、かわいそうさ、を持って接している。

先日、ラジオで、かわいい、とかわいそう、という言葉は、意味が違うのはどうしてなのか、という疑問を言語学者への質問があった。ほかの言葉は、皆同じ意味なのに、というのである。おいしい、おいしそう、苦しい、苦しそう、など。

 平安時代は、同じ意味だったそうだ。かわいそうなくらいかわいい、という意味だったそう。