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東映[禅]を見て、感銘を受けた。動乱の鎌倉時代、中国留学を経て、禅の実践と哲学を持ち帰った、道元禅師の生涯を描いた作品。歌舞伎界のプリンスの一人、中村勘太郎が、道元をさわやかに好演している。

「春は花、夏ほととぎす 秋は月 冬雪冴えて 涼しかりけり」自然に、あるがままに、ひたすら座ること、座ることが目的として座ることが、禅の修行である。映画の中で、死にかけた赤子を抱いて、娼婦が道元に助けを求めにやってくる。道元は、「ひとつだけ助かる方法がある。家の中で、親族に死人がいない家を見つけて、豆を一粒もらって来なさい。」と女に言う。彼女は必死に、その家を探すが、どこにもない。その間に赤子は亡くなる。」道元の所に行き、そんな家なんてあるわけない、とくってかかる。すると道元の弟子が、「不可能なことだということをわかってもらいたかったのだ。」と彼女に告げる。赤子を抱いて、道元は涙を流す。人の悲しみを悲しみ、人の喜びを共に喜ぶ。在るがまま。

 在るがまま、に触発されて、湯沸かしを使わずに、水で食器や野菜を洗いを実践し始めた。冷たいけれど、慣れると、「冴えて涼しかりけり」を実感している。涼しいだけではなく、あとで手が暖かくなる。顔も水で洗う方が気持ちが良い。

映画の中で、食事係が「ご飯を炊くお米がなくなりました。」と告げに来る。道元の弟子の一人が「それではおかゆにしてください。」と言う。

「おかゆに出きるお米はありません。」もう一人の弟子が「それではおもゆにしましょう。」と言う。「おもゆにも足りません。」すると道元は、涼しい顔で「それでは白湯をいただきましょう。」あるがままを受け入れるということ、こういう風になれれば、素晴らしいが、私たちは、餓鬼にとどまっていて、とても涼しい顔で我慢できない。

 せいぜい、私にできるのは、水で洗い、暖房をつけないで我慢することぐらい。京都を追われ、道元は弟子と共に、北陸の地に「永平寺」を開いた。最初に永平寺を訪れたのは、雪の頃だった。澄み切って、鋭い寒さの中で、修行僧の凛とした美しさ、精励さに心打たれた思い出がある。

 それから、何度か訪れたが、観光化されて、印象が変わった。