薬師寺の日光、月光菩薩

   国宝日光菩薩

 

  国宝 月光菩薩

 連休の間、どこに行く予定もなく、見るでもなくテレビを見て過ごした。その中で、NHKが、「薬師寺の1年」をアンコール放送していた。ハイビジョン放送で、再放送の要望が多かったもので、ハイビジョンがない私は、初めて見ることが出来た。

 写経の寄進によって、薬師寺が復元されるまでのドキュメンタリーの中で、若き頃の高田好胤が映し出された。私の目は潤み初め、やがて画面が歪み、常ならぬ無常観に浸っていた。

 薬師寺の、日光、月光の2つの菩薩を、上野の国立博物館に迎える様子は、以前にテレビで見ていた。照明をどのようにあて、見る人達に、最上の方法で、観賞出来るようにするのか、設置するまでの工程を見ていた。

 「薬師寺の1年」では、送り出す側の経緯、工程の一部始終が映し出されていた。

 当時の宮大工といい、仏像を作り上げた作者といい、卓越した技の完璧さ、美への探求心、仕事の完璧さは、ただ感嘆するばかりだ。

  これらの2つの番組を見ることがなければ、薬師寺をお参りしても見方は変わらなかっただろう。平山郁夫の絵画を見に行くついでに、本堂をお参りして、という程度のものだっただろう。日光、月光の菩薩が、薬師寺に帰って来られる頃、是非足を運びたい。

 

 

 薬師寺の、日光、月光の菩薩が、東京の国立博物館へおでましになったことで、数多くの人々を魅了し、心の救済を実現しているにちがいない。前には、仏と菩薩の姿が、後ろ姿は人間の姿が表現されている。博物館での展示の仕方、見え方に苦心している様子をもいながら、私はルーブルにある、ミロのビーナスを思い浮かべていたけれど、実際の展示は、より神秘的で、崇高なものになっているのだろう。上野の博物館にも、行ってみたくなった。

 

友人が、東寺に行くと言っていた。するとどうだろう。テレビで、東寺にある沢山の仏像が映し出されている。たちまち、興味が沸いてきた。

 仏像に、心を抱く年になってきたのだろうか。陽気の中で、家に籠もっているせいだろうか。母が、最近死ぬことに触れるようになったためだろうか。