逝きかた

      

 昨夜のテレビで「あなたはどんな死に方をしたいですか?」という番組があり、6チャンネルでは、「20年後のオウム真理教の真実」とかいう番組、どちらも興味があって、6チャンネルは録画しながら、コマーシャルになると忙しく、チャンネルを変えて見ていました。

 情報コンサルタントとして親しまれた金子さんが、死の一か月前から、準備万端整えて、

 奥さんに、その情報をも、メッセンジャーとして仕えて欲しいと遺言し残した。

 若い母親が、幼い子供にビデオメッセージを残して逝く。

 乳がんを宣告され、手術も治療も拒んで、自然死を選んだ女性と彼女を支える家族。

 コマーシャルになると、6チャンネルに。、麻原が、「皆死ぬ、絶対に死ぬ」と言っている。

 

 死ぬことなんて考えないほうが良いけれど、考えさせられる。その番組を見なくても、

母の所からの帰り、母はいつごろまでしっかりしてたのだろうか、考えながら運転していた。

 母はどうして、あんな風になってしまったのだろうか。

母の妹が亡くなったことのショックが大きかった。それに加えて、手術による打撃も。

母は、少々おかしくても、自分のマンションで暮らしていたほうが幸せだったのではないか。進行も遅らせたのではないだろうか。

 火事を出したらいけない。一人では住めない、と私達は考えたのだけど、それは私達が若かったからではないか。

 母は、デイセンターから迎えが来ても断ることが多かった。

私は毎日のように、母の様子を見には行くものの、母の強さに泣きながら帰る日が多くなっていた。

母の認知症が始まっていた証拠だったのだけど、それを受け入れていなかった。

 認知症になったら、わからないからそうなっても幸せだ、と言う人がいるけれど、私も、ボケどくかなとも思ったこともあったけれど、それは違うと今はわかる。

認知症であっても、自由に生きていられてこそ、幸せなのだ。

  私は、認知症になりたくない。ならないような努力をしていきたい。

 アルツハイマー型の認知症は、薬で改善する日も近いらしいが、老人性認知症や、

動脈硬化や、委縮によるもの、頭の外傷などが原因のものは、日常の生活が大事だと思う。

  母のマンションの隣にいる女性は、ご主人を亡くしていらい、一人暮らしを続けている。94歳くらいの人で、頭がしっかりしている。

  子供のいない夫婦だった。母を羨ましく思っていた。

頼る人がいないから、自分でなんとか生きていかないとね、とおっしゃる。

バス停で会うと、母のことを聞かれる。

今、お元気なのを見て、私は羨ましく、母もああだったらどんなに幸せかと思う。

一人で買い物をして、自炊し、生活しておられる。習い事も続けている。出かけないとボケるからと。

 あんなふうに、生きて、逝く日まで、自分で生きて逝けたら、それほど幸せなことはないだろうと私は思う。

どういう逝き方?と問われれば、どんなに苦しくても、自分の足で歩いて、日常の生活をしながら、逝きたい。

 嵐が丘を書いた、エミリーブロンテのように。

そういう意味では、母の妹の逝き方はそうだった。

 叔母は、病院に行かず市販の薬を買って、自分の辛さをしのいでいた。がんばってはいたが、いよいよだめだわ、と母に言っていた。

 母は何度も医者に行くように勧めていた。

 毎日、株の時間が終わる頃、叔母は電話をかけてきた。

 一人暮らしの叔母が、母に話がしたくてかけてくる。

 

 叔母は入院をおそれていた。医者に行かなかった。

 子供達に迷惑がかかるからと。

 叔母は子供達を大事に育てた。二人の子供は健康優良児だというのが自慢だった。

親は鰯を食べて、子供達にお造りを食べさせるのよ、と笑っていた。

 冬のある日、新聞受けから新聞を取って、観たい番組にチェックを入れていた。

 こたつの中で、咳き込んだ形跡があり、血をはいて一人で逝った。

 検死に立ち会ったのは、最愛の息子で、警視庁の刑事だった。

「太陽のようなお母さんでした。」と息子は葬儀の席で母親を語った。

 私も大好きだった。いつも人を楽しくさせる。

 お腹がよじれて笑い転げるくらい、面白い話をする人。

 素敵な笑顔だけを残して逝った人。

心はとても寂しい人だった。

 叔母が書いた詩で、叔母自身がときに、口にしていた詩。

  ピエロ

 いつも笑っている

ピエロよおまえ

身をよじり声をあげて

いつも笑っているピエロよおまえ

雨が降っても

風が吹いても

いつもおまえは笑っている

塗りたくった白い仮面とまあるい目

赤いほっぺと口もとは

どんな時でも変わらない

だけどわたしは知っているんだよ

その笑いが悲しい涙に満ち溢れ

ただ笑っていることだけが

おまえを支えていることを