1月1日の記事

 

       

 

 明けましておめでとうございます。

おだやかな良いお正月です。

昨年の暮れに、食べ過ぎて、胃を壊したようで、

そんな時には、やたらに食を買い込む傾向があるのですが、

冷蔵庫の中は、消費期限を越えた食品が残ったままの状態で

一応、お正月だから、おせちはいただかないととおもいまして、

大晦日の5時ごろ、母に会った帰りに、門戸厄神のイカリ

に行きました。

食べ過ぎの原因

昨年の閉店時間もわからずに、行きましたら、イカリの食品が

ほとんど半額になっていて、それをお目当てに来た人達が、

カートのこぼれるくらい、正月用のお造り、お寿司、にらみ鯛に河豚などを

買っているのを見て驚いたのですが、私は遅かりし内蔵助で、ハゲタカが残したものは、

通常の食品ばかり。

その教訓を生かして、大晦日の5時に入場したのですが、やはり多くの人達でにぎわっていましたが、目当てのおせちは、なかったのです。

その上、半額になるまでにはまだ時間がありました。

 しばらく待っていると、なまこが半額になって、取り合うように、一個ゲット。

4900円のふぐが1000円引きになって、家族のある人には嬉しいでしょうが.

パンもほとんどなくて、野菜はその前日に山ほど買っていたので、おせちに入れる煮しめがあったので、ヒラメの造りと、ぶり、などを買って野菜果物を買って、正月用のお酒を買って、結局、恩恵にはならずに、通常の買い物で帰って来たのです。

 イカリの客から、こぼれ聞こえる声は

「去年は半額になってたけど、今年はなにもないね。」

売れに売れているわけで、イカリの食品管理も賢くなったわけで、売れ残りが極力なくなるようにもなっていて、その上、株の上昇で、懐具合の良くなった客が、大盤振る舞いできるわけで。

帰りにイズミヤに寄ると、昼間は入れなかった駐車場も一段落して、空が見えるようになっていました。

お花を買おうと思って入ると、イズミヤの方は、お花もどんどん補給している様子。

おせちはあるかとみると、3000円のおせちが、あと4つ残っていて、美味しそうではないにしても、NHKの「ごちそうさん」で観たおせちの由来を考えれば、食べておかないといけないような気がして。

家に帰って、お花を活け、ヒラメの造り(これも2人分は十分ある)を切って、イカリの煮しめと、お銚子一本つけて、テレビを話し相手に、ぼそぼそ食べていますと、美味しいはずの造りも、イカリの煮しめも、味気ない感じ。

ただ、お酒だけは、五臓六腑にしみわたって、心を溶かしてくれます。

 酒の威力は甚大です。

大晦日は第九でしょう。N響の第九を聴いていますと、感極まって、いつも熱いものがこみ上げてきます。

オリバーストーンの言葉が、まだ耳に残っているものですから、第九の言葉の力が、余計に心に響きます。

文学の力、音楽の力が、人々を平穏で、和を大切にする、平和への誤りなき、道を照らす

年になりますように、と願わずにはいられません。

一瞬でも、そう願う心を、一瞬でも共に持てる瞬間があることは、とても大切なことだと

思うのです。

一人でお墓詣りに行きました。

昔、母も父も元気だった頃、大晦日、お節料理ができて、掃除も済ませた夜に、母について買い物に出かけました。

大晦日には、商店街は、売り尽くしで、商品を負けてくれるのです。

父や叔母が紅白を見て、のんびりしている時間です。

お正月には、新しい服と下着をつける習慣が、いつできたのかわからないのですが、

そういう習慣になっていて、家族の人揃えを買いに行くのです。

母が「もう少し負けて。」というのが恥ずかしくてしかたなかった。

母だって、顔を赤らめながら言っていたようですが。

 そんな母の事を思い出しながら、今では、私も恥ずかしい心を抑えて、だめもとで値切れるようになりましたが、それも年の功でしょう。

 その習慣は、今、私には適応していないけど、母には、という思いで、続けています。

 前夜に買った下着と上着と、家にある新しい、ベッドパッドを持って、母のいる施設に行きました。

 係の人にお願いして、元日の朝に、それらに着替えさせてくださいと。

 母は、もうそんな習慣を覚えていないでしょうが、母が私達の幸せを願い、新しい、真っ新な気持ちで新年を迎えるように、と願ったことを、私は母にお返ししてあげたくて。

 第九も、母の影響です。

 

佐渡裕の第九、母と聴きに行きました。あの時の感動、最高の第九でした。

 母と手を取り合って、「良かったわねえ。」と言いあった瞬間は、私に取って

永遠の時間です。

 人を思いり、きずかい、人にギフトをしたい、幸せを願い、人がハッピーでいて欲しいと願う母の心は健在です。認知症になって、言葉も旨く表せなくなっている今も、本当に大切な事は、少しもぶれずに、健在です。自分の部屋がどこなのか、ついさっきの記憶が消えてしまっても、子供達が、子供達であるのか否かもわからなくなっても、健在です。

 だから思うのです。サン、テグジュベリの言葉のように、

「本当に大切なものは見えない」けれど、心は、一点の曇りもなく、輝き続けることが出来るのだと、更に透明で美しい夜空に光る星を抱く、宇宙のように。