認知症は、頭の良い人がなる病気

 

     

   金曜日に、やっとのことでつけてもらった、簡単な、取り外しのきく、ギブスは、

15分も、持たないので、月曜日、医院が開くのを待って、電話した。

母を、長時間、待合室で待ってもえらえない、と言うと、「二時の診察前に来れば、

待たなくてもよいでしょう。」と言われたので、

母を迎えに行く前に、医院に、診察券をだし、名前を書いておいた。

 母を乗せて、医院の駐車場に行くと、3台のスペースはすべて、車が入っている。

 医院まで、母に歩いてもらうには、距離があるので、この前と同じ、近くにある、薬局の駐車場に入れた。

 母は、この前と違って、レントゲンもスムーズに取れた。やはり、ひびが入っている。

施設では、固定してもらった方が安心だ、という。

 もう一度、ころんで、手が骨折してしまったらいけないから、と。

 医者は、念の為に、固定しましょうと、ギブスを固定でしてくれた。

 私は、ギブスをはめたことがないので、昔、母が、オートバイに追突され、背骨にひびが入って、2か月ほど入院した時に、冷たい石膏で、母の胴体のギブスを作るのを見たことがあるのだけなので、そういうのを想像していたものだから、技術の進歩、簡単なのにびっくりした。

 ガラスファイバーのような、綿を巻き、その上に、ビニールの固いものを巻いて、

しばらく手でさすると、固まる。

 綿の出た部分を切り、そこをビニールテープで巻いて、終了する。

が、この綿を取ってしまうと、中が閉まるので、との懸念があった。

その日は、夕食までの何時間か、母がテープをはがさないように、ずっとそばにいた。

母は何度か、そのテープを剥がそうと、めくる。だめだめ、これは取ったら、だめなのよ、

というと、「へー、そうなの。」と納得するのだけど、それはすぐに忘れてしまう。

 3,4度そんな、問答を繰り返して、夕食の時間が来て、私は帰った。

翌日、施設から電話があり、母が、ギブスごと、手から外してしまった、とのこと。

「手の腫れがひいたのでしょうか。すっぽりと抜き取られて。」

「じゃ、医院に電話してみます。」と言って電話を切った。

火曜日の午後は、4時からになっている。

 弟のお嫁さんに、電話をかけて、援軍を頼んだ。

毎日、薬屋の駐車場におかせてもらうのも気が引ける。もちろん、買い物はするのだけれど、母を待たせて、あれこれ選んでいられない。

 母と一緒に、医院に入ってもらって、私はその間に、医院の駐車場に停めに行くことにした。

 母は、昨日とは違って、医者が手を触るのも、怖がって、気持ちが安定していない。

時間のせいなのだ。夕方になるにつれて、気持ちが不安定になる。

人間の心には、一定のリズムがあるのだ、ということが、母を見て、納得できる。

それは、心の不安につながっていく。

太陽の光が、さんさんと降り注ぐ、明るい日ざしの中では、心も晴れて、からっとしている。一日の始まりと、心身の躍動とが連動する。

 昼ご飯を食べて、午後のひと時、人もまどろみたくなる頃は、安定して、気持ちもおおらかになる。

 太陽が傾き始める頃、午後の4時を過ぎると、心は不安に包まれ、暗いイメージにとらわれるようになる。

メランコリックな時間。

 

はさみを出すと、母は、「危ないじゃないの。そんなことしたらだめ。だめよ。」とパニック。昨日も同じことをしているのだけど、それほど怖がらなく、説明を聞いて納得して、じっと見ていた。

無事に終わった。持って行った、ギブスを見ると、中の綿を抜いている。母は、中綿を抜いて、ギブスをすっぽり抜いたようだった。

 今回は綿を少なくしているが、来週、マジックテープで取はすしの簡単なギブスを注文しているのが、入って来る。

 母は取るけれど、それなら、包帯を巻きなおすことがいらないので、気がつけば、簡単につけることができるから、と。

 母の頭が良いことに、私は関心する。

 「ギブスを取ったか。ショックだね。」と医者は自分の威厳をかけて。

 「 私もショックです。母の頭の働きの方が、良くて。」

心の病気って、頭が良い人がなるのだ、と思う。昼行燈、という言葉がある。

ボケは、初めからボケているので、鈍いから、心の病気にはならないのでは?

私は安心していて良いのかも。