日曜日、出かけるはずであった、約束が、キャンセルとのメールが入っていた。
前日に買った、村上春樹の本がある。
本と読むには、おあつらえの一日だ、と思った。
良いお天気だから、出かけるのも悪くないのだが、こんな日があってよい。
朝ご飯を食べ終わると、庭に出て、フリージャの回りにまとわりついている野草をむしったり。
なんとなくいいつもの癖で、テレビの映画チャンネルに回すと、へっプバーンの「昼下がりの情事」が始まったばかり。
オードリーが嫌いな人は、いないだろう。お相手の、ゲイリークーパーも、日本で人気が出たスターで、舞台はパリの、リッツホテル。
ハッピーエンドで終わる、ハリウッド独特の幸せ物語なので、現実とは、かけ離れている夢物語だけど、なんとなく、心が温かくなって、ハッピーな気分になる。
昼食のカレーは、友人のブログを見て、食べたくなって作ったもの。
一人暮らしの人間が、カレーを作ると、毎日食べないといけないことになる。
でも、料理をしなくて良いから便利だし、毎日でも、カレーなら、食べられる。
http://www.asahi.com/culture/update/0412/TKY201304110511.html
午後、歯磨きをしながら、テレビをつけると、ヤシキ、タカジンが、「そこまで言って、委員会」に出ていた。そうだ、復帰すると言ってたっけ。
以前の、ギラギラした熱気は全くなくて、健康そうな顔色はしているものの、すっかり毒気を抜き取られた感じがする。
病魔は人間の心も体も変えてしまう。
3時ごろから、読み始めた、村上春樹の小説、引き込まれるように、最期まで、読み通した。
途中、夕食に、残っていたカレーを食べ終える、中断があったとしても。
タカジンが、すっかり変わっていたのと、同じような事が、登場人物達にも見られる。
村上春樹の、新作は、待ち焦がれて、3年ぶりに出版の運びとなって、売り出し時間のカウントダウンまで、ワクワクしながら、買うのをまちわびている人達が、ニュースに流れていた。
この現象、新作のマイクロソフトとか、アップルの製品なでで、良く見られる,光景と同じ現象だ。さらに言えば、デパ地下に、長い行列をつくって、なんたらいうチーズケーキをゲットしたり、2時間待って、たった一杯のラーメンにありついたり、と変わらない。
そういえば、道頓堀に、どこからともなく、集まって来る若者達がなにをするでもなく、一緒に、そこにいるというだけで取り残されることの恐怖を免れていた。
村上春樹の小説の何処が良いかと、問われた、人達の中で、「共感を覚える」「自分を肯定してもらえる」という答えに、私は惹かれた。
読み終わって、心の高揚もなければ、何かが残った、という印象もないし、それが希望につながるかと言えば、そうでもないけれど、「三年もかけて、じっくり書き上げた小説」は
8時間という、凝縮した時間で、私の心と体に染みこんでいく、という貴重で至福の時があった。
最近、今風にして、一気に本を読むという時間をもたなくなっていた。以前に、「活字が好きだね。」と言われた・。それは自分でも気づかなかったことだったが、そういわれて、
思えば、確かにそう。
子供が小さい頃、「束縛された生活の中で、限られた自由の選択があった。」これは、村上春樹の、小説のテーマ、にもなっている感覚だ。
私は、その頃、子供を遊ばしながら、「新聞を2時間かけて読んでいた。」読むことが好きで、それが限られた自由の選択というものであった。
本屋をやってみたくなったのも、読むことが好きだったからだろう。
近所の本屋が、売りに出された。母親が働き、娘は本を読んでいた。娘が結婚することになって、母親付きで、東京に行くという。
店のやりかたをしばらく教えて、もらって、私が本屋の店主になった。
私の目が悪くなったのは、暗い中で、本ばかり読んでいたから。家に持ち帰り、夜中まで読んでいたから。
目が悪く、疲れるので、最近は、本を読まなくなった。今は、読んでいると、かすんで、昨夜も、最期には、字がはっきりと見えない状態の中で読み終えた。
投げ出していた、自由。放棄していた、喜びを久々に味わった。
その代償として、肩がコチコチに凝って、腕で顔を支えて、首を保護していたために、くるぶしを痛めたようで、手首が痛む。
本を読む根気をなくしたのは、首が悪いという理由もあった。首に負担がかかるから。
久しぶりに、味わった、達成感と、心身の栄養。