レ、ミゼラブル、は、永遠のテーマ。

  

 朝、雨戸を開けると、雪景色。

  ゴミ出しに、」雪靴を履いて、エッジをかけて、よちよち歩く。

  坂道なので、滑らないように、転ばないように。

 スタッドレスのタイヤを買って、やっと出番かな、とも。すでにタイヤの跡がって、凍っている。

 昨日は、尼崎に、再び「レ、ミゼラブル」を観に行った。

  二度目の映画版なので、舞台での先入感が取れて、どの俳優も、適役だと思った。

 特殊メイクが、ジャンバルジャンの変容を見事に作りあげている。コンタクトレンズが 出来てから、目も変えることが出来るようになって、「目は口ほどに物を言い」ということも、特殊メイクで変えられるようになった。

 最近では、家で、映画のビデオが沢山見られるので、わざわざ、映画館に足を運ばなくても、と思うのだけど、劇場に行くと、違いは歴然とする。

 元気な頃は、何本でもはしごして観られたけれど、映画が結構疲れるものだ、と感じるようになった。

 身体のどこも痛くなかった頃がなつかしく思えるが、あちらこちら、まだ痛いと思えるうちは、ちゃんと神経が働いていて、人間が死ぬまで、動体である証拠。

 ジャンバルジャンは、最後に、「今こそ、神の身元に迎えてくいださい。私は老いて、準備は出来ています。」と心臓が弱って、声が続かないような歌い方で、歌う。

 若い頃は、あれだけ、息が続くものかしら、というくらい、肺活量を持って、力強く歌い、無類の力持ちだったジャンバルジャンが、老いて自分の愛するコゼットの元を去る時には、銀の燭台を入れた、わずかな荷物を馬車に運び入れることにも、よろけるほど弱っている。 無理に無理を重ねてきた。酷使した体。イエスが、血であがなった愛で、悪の罪から、救われたジャンバルジャンは、生まれ変わって生きる。「愛する時、神の側にいる」という言葉は、まさにイエスのように人を愛し続けた、ジャンバルジャンが、神の元に迎えられるにふさわしい言葉。

 法は、人間が作ったもの。真の法は「神」の法であり、それは「イエスの愛」

 

私には、忘れられない言葉がある。

   関学のチャペルで、今にも息を引き取ろうとしている人の、メッセージが、流された。病を得たことを神に感謝し、信仰に生きられたことを感謝し、幸福です、との最後の言葉だった。

 結婚して、子供達がいて、幸せな人生だった。病を得たこと、神に試練を与えられたことで、私は、感謝し、神の愛をそばに感じることが出来た。

 まだ、成長期になる子供達と別れて行く辛さ、子供達が愛する人に成長し、愛する人と結ばれる事を、見届けることが出来ないけれど、全ては神の御心なのです。

 私は、神の愛を身体中に感じ、感謝の気持ちで一杯です。

 そのような言葉だったと記憶している。一言言うのにも、大変な状態で、あえぎながら、とぎれながらのメッセージが、関学の本堂の中に流された。

 私も、他の人達も、皆、感無量で聞いていたと思う。涙を流して聞いていた。

 私も含めて、このような神の側にいる人の、言葉を聞いている、人間達の、現実は、というと、とても神の愛からは遠い。

よこしまで、猜疑心が強く、打算的で、自分達の幸せだけを優先して生きている。

 レ、ミセラブルに、出てくる、よこしまな夫婦、時代の荒波をうまく泳ぎながら、

 底辺で生きている、ユーモラスな夫婦が、ジャンバルジャンを救う役割を

果たしている

 良いは悪い、悪いは良い。

 欲ぼけの私は、尼崎から宝塚までのJR320円、それから西宮のコナミに行くのは、お金も時間もかかるので、

 大阪に出て、阪急に乗ろうと思って、チケットを買う時に、JR西宮から歩けば良いということに気がついた。

 

 歩くこと20分、寒かったけど、コナミの暖房した中に入ると、身体が温かくて、汗がにじむほど。

 葉を落とした、裸の木が美しく、冬空に、すっくと立ち上っていた。