映画「東京家族」

   

東京家族」を、私は全くの先入感なしに、山田洋次監督独自の作品

なの、と見ていると、これは、「東京物語」のリメイクであることに気づいて、

 「東京物語と否応なく比較され、山田洋二監督は、「東京物語」がいかに、普遍的かつ、孤高にある、永遠不滅の作品であることを、証明している、と思いながら、見ていた。

俳優達にも、違和感があったのだけど、見ているうちに、私自身の、肉親や親子の関係におきかえ、親近感をもって見ていた。

 東京物語 では、原節子が、亡くなった次男の嫁を演じていて、血を分けた肉親よりも、

他人のあなたにこんなにも優しくしてもろうと、と母親役の東山千恵子が言う。行き場を失って、母親は、次男の嫁のアパートに泊めてもらい、嫁からお小遣いまでもらう。

http://www.tokyo-kazoku.jp/

 山田監督は、「東京家族」という作品に、小津自身を、登場させていることに、映画を見終わって、私は気づいた。だから、この作品は、小津監督に、捧げるという献辞は、より深く生きている。

 父親は、東京物語に出てくるような、「優しい、ものわかりの良い、古きジェントルマン」ではなく、「娘は甘やかし、息子達には、厳しすぎる父親」に作り変えられている。

 次男の、妻夫木が演ずるのは、親に心配をかけてばかりいる息子で、将来の設計もたたない、好きなことしか出来ない息子。父親は、長男と次男を比べては、だめな息子だと決めつけていた。立派に育った長男は、親を棄てて、東京で開業する医者。可愛がって育てた娘は、打算的で、自分本意の人間になっている。

  リヤ王ではないけれど、末娘のように、父親が認めなかった、だめな息子が、

 母親に似て、優しい息子であったことを、父親は、一人残されて、知るようになる。

東京物語では、母親の葬儀が終わって、さっさと帰る長男とと長女。

杉村春子が演ずる、長女が、母親の着物をもらうからら、と言う場面があるが、東京家族では、次男が、長女に「今そんなことを言うことはないだろう。」と怒りをぶちまける。

 母親が倒れる前日に、母親は、次男のアパートに泊まり、そこで、結婚の約束をしている、彼女、(蒼い)を紹介する。それが原節子が演じた、次男の嫁、という設定だろう。

 優しくおもいやりのある女性で、お葬式に次男と一緒にきて、父親を残して、東京に帰ることをためらい、世話をする。

 頑なで、心を開かない父親が、母親の形見の最も大切な時計を、彼女に手渡し、

 良い人と結婚する息子に安堵し、息子を頼むと、深々と頭を下げる。

次男は、母親に似た、優しい息子であることを、父親は、家族に棄てられて、初めてわかるようになる。

  小津安二郎は、生涯結婚しなかった人だ。輪廻と無常観を、家族の生活、人生、関係の中で描いた人で、孤独の人、とも言われるけれど、「母親との繋がりの深い人」だった、と思う。

 私は、東京家族、を見て、最後になるにつれ、泣けて、泣けて仕方がなかった。

 終わった頃には、目がくしゃくしゃになっていた。

 一人ぽっちだという思いは、がらんとした家の中で、ふと風がよぎろうに感じるこがしばしば。

  次男と、息子が重なって見えた。

 。

 息子と結婚してくれる人がいたことに感謝しなければ。

息子が幸せであれば、それで良い。

東京家族は、私の家族なのだ。

 あの母親のように、頑固な父親に寄り添って、全てを受け入れる、聖母か仏様のような母親とは、ほど遠い私の様な母親に、優しい息子を期待するのは、言語道断。

奥さんに優しければ、それで充分。 

隣で見ていた友人も泣いていた。

 脳溢血で倒れて、翌日亡くなったお母さんのこと、思っていたのな、と思ったら、お父さんが亡くなった時のことを思い出していたとか。

東京家族

 

 これは、現代に生きる、私達家族の問題で、山田洋次が「寅さん」で描いた、東京の下町の人情、熱すぎるほどの人情とは、相反する、リアリズムの現実を描いた作品

映画の部屋は、すごく狭くなっている。

  現実には、もう少し、広いはずだけど、小津作品は、固定カメラを使っているのを、山田監督は、環境に右往左往でひしめきあう、人間の肥大化を図っている。

 夫婦で、海を眺めるシーンは、どちらの作品でもあるが、夫婦が、生きたここちと安らぎを覚えるシーン。自然主義を人間の心のよりどころに置いたシーン。