母の幸福

   

 母に会いに行くと、母は、私が一人でいることをいつも心配してくれる。

 ひとりぽっちでいることが、耐えられない寂しさだろうと、母は想像しているようだ。 私は、その反対のことを考えて、母の所に行くのだけれど、でも、母の想像が当たっているのか、とも思う。

 母は、老人ホームという、隔離された場所で、自由がない生活を強いられている。

出来ることなら、母が自分のマンションで、好きなように暮らせたら、どんなに母は幸せだろうかと思い、子供である、私や、兄弟が、誰も、母を引き取らないで、身勝手な生活をしている、という後ろめたさを引きずっているのだけれど、その考えは間違っていたのかも、と最近考えるようになった。

 

 母の方が、私の一人暮らしを心配して、「あなたもここに部屋ないかしら。家に帰ったら、一人ぽっちで、つまらないでしょう。一人は危ないわ。誰か来てくれる?女の子がいる?」

 など、など、私を心配ばかり。

「お母さんは?寂しくないの?ここで何しているの?」とき私。

「ここは、誰か、かれか、いるから、寂しくないわ。何にもしていないのよ。ころんと寝るだけ。あなたも、ここに寝られるわよ。泊まったら良いわ。帰ると危ないわ。」

 母は、外に散歩に行くのも、危険だから、と嫌がる。外に連れ出して、お花を見せてあげたい。気分が良くなるのでは? ショッピングにつれて行ってあげたい。

 などと、私は思うのだけど、母の関心は、「心の平和、と安全と、死なないようにすること」になっている。

 息子が来なくても、施設の若い男の子がいるので、その男の子の顔を見ると、それは嬉しそう。優しい女の子や、お風呂のお世話、食事の時間、その都度、忘れていくけれど、 お世話してくれている人達の方がいるので、寂しくもなく、何の不満もなく、元気で暮らしている。

 子供達のことも、孫達のことも、誰が誰だか、わからなくなってきて、自分の若い頃の写真も、綺麗な人やね、と。

 さすが、父親の顔だけは忘れないようで、「これ誰?」と言うと、「お父さん」

「お父さん、今どうしているの?」と聞くと、

「さあ、どこかにいるのじゃないかしら。」と他人事で関心なさそう。

 子供達が出ている番組が好きで、気分が良くなると、歌い出す。

 母はハッピーなんだ。死なないように、というのが母の願いだし、そばに若い人達がいる、というので、安心している。

足繁く、通っている、娘の私の方が、母の心配の種のようで、それでも、母が待つことの出来る存在でもあって、互いを頼りにしているとは思うけど、母は、それなりに、不満のない暮らしをしているのだ、と最近は思えるようになってきた。