生きているうちが華

 

   

 ニューヨークで長く一人で暮らしていた人が、今月の初めに亡くなった。

ホスピスに入って、最後の時を待ちながら日日を送っていた。

 親友が来日する前日に亡くなったとのこと。

 親友は、この6月から7月にかけて、彼女の為に、日本に帰り、2週間余り、側に付き添っていた。

 もうだめだと言われたのに、奇跡的に、元気になって、笑いながら、親友との時間、幸せな気分で過ごしていたという。

 お葬式も、お墓も、お墓参りも入らない、という遺言通りに、お葬式はなく、お骨をおいて、お別れの式を、近親者で行ったとか。

 それでよい、と私は思う。

  生きているいるうちが、人間。人と人との関係性において、人間の価値がある。

 亡くなれば、亡骸で、火葬であれ、土葬であれ、皆、土に帰る。土の一部になって、自然の一部になる。

  モンパルナスの墓地に葬られている、吉田さんのお墓も、50年かその先になれば、掘り返され、他の人のお墓にあてられる、と生前の吉田さんから聞いた。

 魂は、魂が生き続けるとしたら、天国に、永遠の住まいを得ている。

 空を見上げる方が、その人の魂に触れることが出来るだろう。

 土を取れば、その人の身体に触れるだろう。

 千の風になって、という歌は、真実のように思える。

 生きているうちが華、生きているうちに、後悔のない人生を送りたい。

 やらずに、嘆くよりは、やるだけやって、力尽きたい。

 瀕死の白鳥のように

   かっこの良いこと言っているけれど、現実は無様なものだ。

 コナミからの帰り、眠くて、どうにもならないくて、7時半から寝て、翌朝5時まで寝ていたので、もう大丈夫かな、と思っていたが、豊中の病院に叔母を見舞って、いつもより早く、切り上げて、母に会いに行き、5時過ぎにそこを出て、コナミに行った。

 頭がぼっとしてきたので、水中歩行は15分で切り上げ、お風呂もそこそこに、出て来た。

 車を運転し始めると、もう眠けが襲って来た。

 昨日よりもやばい。途中で止まれそうな所もなく、ほっぺたを叩きながら、運転していた。

 冷蔵庫の中身は乏しいけれど、立ち寄って、買い物をする元気もない。

 やっと小林の坂道まで来て、一瞬、道を外して、もう少しで、壁にぶつかる所だった。

 一瞬の睡魔、怖い、怖い。

 それから、家までの間も、眠気に耐えられそうもない、と思われながら、やっと家の倉庫に収めた。

 このまま、寝てしまおうかと思ったが、お腹が空いている。

電子レンジで温めた、お好み焼きを、フランパンで焼き直して、ワインとビールで。

 お腹が一杯になって、歯を磨いていたら、そのまま寝てしまっていた。

 夜中、何度か、目は覚めたものの、5時まで寝ていた。

 車は控えておいた方がよさそうだ。

  毎日、車に乗って、通勤している息子達は、そうはいかない。

 気を引き締めて運転していても、自分の限界を超える時がある。

 人には、いつも、眠気が酷いときは、車を止めて、寝るように。

 でも、時間に追われて生活している人達に、そんな余裕はない。

 恐ろしい事態になって、しまった、と後悔するものなのだ。

 今日も、頭がぼっとしている。

 さて、行動に出るか。しなくてはならないことがある。

 

 朝、6時のラジオ体操をやっていたので、身体を動かしてみた。

 堅い。動かない。筋肉が、別人のように、言うことを聞かない。

 なんで?あれほど動き回っていたのに。身体はこちこちに膠着

している。