映画「わが母の記」

   

 コナミを出て、あらかじめ予約をしていた、映画「わが母の記」を観に行った。

 前から楽しみにしていた映画だった。

 井上靖の母親を描いた作品。映画の中で、小説の種にされて、暴露されていることへの 不満を娘が語っている。

 映画の中での台詞や進行は、その後の作家の作になっていて、その作品を映画にしているという不思議。

 作家は、身内の恥も、自分もさらけ出すという罪な仕事で、その仕事の御蔭で、家族が養われ、教育を受け、別荘を持ち、毎年、恒例の母親のバスデーを、ホテルを使って、バンドを呼んでの、庶民では考えられない、優雅でリッチ。

 作家は、他の姉妹とは、違って、一人、8才から預かられて、母とは中学まで暮らさなかった。自分は母親から捨てられた、という拘りを持ち続けながら、母親に接して来た。老いと共に、記憶をなくしていく母親に、問いただしてみなくてはならなかった「何故」

 その疑問が、母親の心に中に、最後まで生き続けていた「息子への愛」の証明を見せられることで、作家の心が一瞬にして、氷解し、熱くなる。

 

 過保護なくらい、作家の娘達への愛情、執着は、「母親に捨てられた」心の寂しさ、不安を埋めるものであった。

 寂しさ、空しさ、孤独感と不幸感、が、素晴らしい作品を生み出すために、なくてはならないものでもあった。

 この世に、母親が愛を注ぐのは、第一に、息子。亡くしてならない存在である故に、

母親は、自分の身を切る覚悟で、息子を手放した。

 その辛さ、息子を求めてる母親の心だけは、最後まで死ななかった。

 井上靖は、その母への葛藤と、母の自分への愛の証しを、小説として書くことで、

 母を卒業していったのだろう。

 書くということは、「死ぬこと」出来事の、心の、「死」を宣告すること。