幸せの秤

 

   

 友人の隣に住むご主人のお姉さんは、息子夫婦と同居している。

以前は、良く、友人の家にやってきて、話し込んで、食事も食べて、長居するのが

習慣だったが、息子の結婚後は、用事が終わると、すぐに退散するようになったとか。

 「随分、気を遣っているのでしょうね。」というのが、私達の想像するところ。

 離婚後、母子家庭で生活してきて、息子は結婚しても、一緒に、と言ってくれて、

 外から見れば、今時そんな孝行な息子はいない、と思わせるのだけれど、

 お姑となった、ご主人のお姉さんは、以前にもまして、頭痛が酷くなっているので、

 友人は、ストレス解消に、夜のライブに誘うと、ライブの始まる8時には、家に帰っていないとと、キャンセル。

  お嫁さんに、遊んでいると思われたくないのでしょうね、と言うと、お嫁さんは、良く出かけたり、友達と泊まりがけで遊びに行っているそうで、そんなときには、

 親子水入らず、息子の為にいそいそと料理をして、息子も母親と独身時代と変わらず、 話をするのだそう。

 息子を亡くして夫婦ふたりっきりになっている友人にとっては、それ事態が羨ましい

話なのだけど、息子の結婚で同居すると相談を受けた時には、友人もご主人も、反対したのに、「可哀想なのよ、お姉さん 」と自由のなくなった身に同情を寄せている。

 私が、枚方の長尾という所に、16坪の小さな家を建てて、2年ほど住んでいた。

 息子がまだ1才にならない赤ちゃんの頃、病気ばかりするので、空気の良い場所に、

と元主人の名義で買ってもらった土地に、小さなプレハブの家を建てた。周りは、田んぼで、隣と、裏に家があって、裏の家に、やってきたお嫁さんが、私の家に遊びにやってくると、裏からお姑さんが、「なになにちゃん、帰って来てください。」という声が聞こえる。そのうちに、彼女は来なくなった。

 お姑さんにしたら、「よけいなことをしゃべられている。」という勘ぐりがあったのだろう。

 そういう体験があるので、友人の話は、その逆であるが、昨今は、若い夫婦は強くなり、  自分の家を開け放した、姑は、気を遣って、小さくなって、不自由を甘んじて暮らすように なっている。

 どちらも、ある幸せ、であることは確か。

 人間の最も不幸は、「孤独」であることなのだから。