春は曙、なのだけど

 

  

 友人は、パリに着いて、楽しそう。

  非日常の生活は、充実しているけど、毎日が、暮れていく日常の暮らしは、日を数える暇のないほど、早く過ぎる。振り返ってみれば、何もしていないのに。

 今朝、私の呆け具合には、自分でもあきれ果てた。

 マグカップにミルクを入れて、電子レンジで温めている間に、私はマグカップを探して、ないない、棚の中を見たり、流しの奥に入り込んでないかと、探していた。

 どこにもないので、諦めかけて、他のカップを、と思った矢先に、電子レンジの中に入れて暖めていたことを思い出したのだ。

 ね、酷すぎるでしょ。お酒のせいかな。それとも、脳のどこかにつまりがあるのかな。 ぞっとして、怖くなったよ。

 今朝は快晴だ。

 早めに家を出て、一心寺さんにお参りして、それから、叔母の相談会に参加するつもり。 今後の事をどうするのか、甥と姪が寄って、話し合うことになっている。

 私としては、意見は言っても、意見なら、いくらでも言えるけれど、どうすれば、叔母にとって良いのか、どういう決定をするのかの判断は、しようがない。

 本人が決められれば良いのだけれど、本人の意志に従えば、「いつまで生きてても仕方がない。」と言ったり、「歩けるようになりたい。」と前向きなことも言う。

 食事を口から食べないと、他に移れないよ、と言っても、「食欲がない」と食べることを拒否する。かといって、胃瘻にすることは、向き不向きがあり、叔母の場合、胃潰瘍を多発しているので、向かないかもしれない、とのこと。

 何かを決めること、現状から、抜け出すことは、全てリスクを伴う賭けなのだ。

 賭ける、という不確かなことを、甥や姪が、決められるだろうか。

 荷が重すぎる。

 春めいてきたというのに、空は晴れ渡っているのに、心は曇り。

 裁判員に選ばれた人の苦悩はいかばかりか、と思う