映画「恋の罪」

   

http://www.koi-tumi.com/index.html 恋の罪

 シネマリーブスで、「恋の罪」という映画を見た。

 ウェスティンホテル前の広場では、ドイツを真似て、クリスマスマーケットが出ている。 私の大好きな、ドイツのクリスマスマーケット、ほんのちょっぴりでも雰囲気を味わうことが出来て、心が温かくなった。

 同行している友人は、ドイツもクリスマスのマーケットも知らないから、感慨無量というわけには行かず、興味も沸かない。それはそうだ。似せてはいるけれど、ドイツのように、寒くもないし、空気も違う。ここは、日本で、梅田で、スカイビルの広場に、出店が出ているだけで、縁日にいるのと変わらない。

 映画も、見方によって、全く違うものになる。

恋の罪」は、やたらに、性描写のシーンが多く、宣伝でみた所から、平凡な主婦の転落、だというので、「恋、夫、ボーイフレンド」のような軽い映画化と思ったら、気持ち悪いシーンの連続で、一旦は、出ようかと思ったくらい。だって、横にいる彼女には、あまりに刺激的な、ポルノ映画のようで。

 途中から、映画に引き入れられて行く。これはすごい映画だ。

 文学的な作品で、言葉と価値。身体に宿る言葉にこそ、人間の真実や価値があるということを追求した、映画芸術と呼べる映画だ。

 監督は、それを意識して、「ベニスに死す」を映画音楽として流している。

  最後のシーンで、路上で蹴られて、血を流しながら、ほほえむ女のバックグラウンドに、「ベニスに死す」の音楽が流れる。荘厳な響きをもって、美しく、悲しく、宗教的な静けさえ、漂わせて。

 あのシーンと一緒だ。教授が、化粧して、美しい少年を見ながら、恍惚とした表情で死んで行くシーンと。

 二人は、不可解な「愛」の奴隷となり、変態、と蔑まれる「肉体」とそこに宿る言葉との一致の状態で、恍惚状態の中に、ほほえみを浮かべている。

 カフカの「城」もテーマになっている「城」とは何か。

 この映画は、「ベニスに死す」を見ていなければ、言葉についての文学的下地がなければ、わけのわからない、恐ろしく、気持ちの悪い映画でしかないかもしれない。

 それも、監督の狙いだろう。観る者に、気持ち悪い、とか、恐ろしい、とか、変態だ、とか、そう感じてもらえば、この映画は成功している。映画の言葉が、身体に浸透して、本当の意味を持ったからだ。

 そして、この映画の中で、象徴的だったことは、上品で、家系が良いと語る、母親が、 夫が変態で、それを受け継いだ娘が血を引いて、下品で変態、おぞましい血筋を受け継いでいると上品で落ち着いた表情で語っているのが、豹変して、汚い言葉で怒鳴り、刃物を振り上げる。

 一皮むけば、人間の本性が現れる。理性で抑えていると、仮面をつけているけれど、憎しみと怒りよって、破壊されると、おぞましい姿をさらけ出す。そういう自分を、自分は知らないのだ。

社会は、そういう身分で、生きている人々に、支配され、曲げられ、人間が精神も肉体も、縛られ、自意識の奴隷になっている。

 愛にたどり着けない。愛の周りを回っているだけだ。遠くに望みながら、欲望しながら、 死んだように生きている。愛とは、城、不可解な得たいのしれないもの。

 蹴られて、蔑まれ、恍惚状態にある、女も、ベニスに死すの教授も、城に入ったのかもしれない。