お盆が終わった

 

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お盆の15日は、天王寺の一心寺さんに。昨日は、京都の大谷さんに。

一心寺には、母の両親のお骨を納めている。

 祖母は、よく仏さんのような人だと言われ、祖父は、古武士のような人だと言われた。高野山の麓の商屋に4女として、生を受けた祖母は、父親を早く亡くし、母親は5人の子供をかかえて、畑を守った。亡くなった夫が、亡くなる時に、「わしはいつもお前を一緒いて、守ってやる。」と言い残したという。曾祖母は、夫が寄り添ってくれているのが、わかったので、怖くなかった。

 祖父母の人生は、紆余曲折はあっても、苦悶に満ちた人生だったと思う。御大師さんを信仰し、御四国八十八カ所を、白衣を纏い、歩いて廻った。途中、何度も御大師さんのお御陰をいただいた、とか。

 

祖母が病院のベッドで亡くなった時に、財布の中に10円しか入ってなかった、と言って母は泣いた。

母は、折りにつけ、お金や食べ物などで、援助をしていたけれど、祖父母の口には入らず、お金は、家族と息子の為に消えた。何もなくなると、祖父母は追い出され、娘の所に身を寄せた。祖母の身体は限界だった。母の妹にしがみついて泣いた。

妹夫婦は、このまま家で看取ることは出来ても、病院には入れてあげられないと。母はすぐさま、母が費用を持って、入院させて3週間、お彼岸の頃に祖母は亡くなった。お葬式も、全ての費用を母が払った。

 その後、祖父は家に戻り、一日中、手を合わせて祈る日々、亡くなった時には、お腹の中に食べ物は何もなかった。粗祖父のお葬式も費用も、全て母がした。

 

 祖母は、優しくて、朗らかで、人なつっこい性格で、母が子供の頃、琵琶と詩吟を習っていた。清潔ではあっても、いつも同じ着物を着て過ごす、母親が恥ずかしかった、と母は言う。

祖父は、習字を生涯続け、幾つかの職業を変わり、やがて刀屋を営み、刀の売り買いで、全国を旅するようになった。

引きこもりの息子を結婚させなければ、安泰な日々を送れたかもしれない。アルコール中毒と博打に走る息子、あらたに抱えた妻子、祖父の蓄えで生活する日々は、やがて底をつき、息子夫婦から捨てられた祖父母。

祖父母は、生涯、息子を愛し、謙虚で、信心深く、誰を非難することなく、静かに死んでいった。

この親にして、この子あり、と言われる。

母の有り様は、祖父母の有りようから。

 

一心寺さんは、お墓を持たない人が、御骨を納めるお寺として知られている。大勢の人達、家族がお盆とお彼岸に訪れる。

母がしていたように、おせがきを書いて、御詠歌を詠ってもらう。

 毎年、施餓鬼の枚数が増える。私の周りから、旅立っていく人達の名前を墨で書いていく。

全く不信心ものの私が、母の代わりに、お参りをするようになっている。

翌日は、京都の大谷さんに。

父がいた頃、父母と、息子と4人で、五条坂の太谷さんに来た事を思い出す。暑い日だった。父がお腹を壊していて、お参りの帰り道、河原町まで歩いている時に、漏らしてしまった。パンツを買って、履き替えたことがある。息子はおかしくて、ケラケラ笑っていた。お盆になると、思い出される、父には思い出してもらいたくない失態なのだが、私達には、貴重で幸せの記憶になった。

 16日は、京都5山の送り火がある。

亡くなった人達を、送って帰ってこようと思った。

吉田さんは、きっとパリの空にいらっしゃるだろうけれど、一心寺さんと、太谷さんのお参りしたから、京都の送り火の中にもいらっしゃるかも。

 河原町まで歩き、それから、京阪の出町柳あたりまで歩き、夜の8時に、大の字がくっきりと浮かび上がった。

 初めて見る、送り火

 大文字焼きと言えば、母の思い出話が浮かぶ。

母が下元気だった頃、歌舞伎を観に来たり、友人の日本舞踊の会を誘われて、京都に良くでかけていた。

 踊りの会の後に、送り火を見ようという趣向で、料理屋さんに席を取ってもらっていた。 料理屋さんに一行が落ち着いて、さあこれから、というときに、不審火がでて、全員が外に追い出されたのだという。

 「御山焼きを見るつもりが、かちかち山の狸になったのよ。 」

母はおどけて、出て行くまねをして、笑わせていた。