吉田堅治という存在の宇宙

 

 帰り道、車の運転をしながら、身体が硬直していた。事故を起こさないように、細心の注意を、誰かが飛び出して来ないかと、左右をきょろきょろしながら、家にたどり着いた。いつもは、音楽を聞きながら、通いなれた道を。 家に着くと、大学の恩師から、お葉書が届いていた。吉田さんの放送を見て頂きたいと、案内の葉書を出していたのに、早速お返事を頂いた。

 放送が始まるまでに、胸が張り裂けそう、気が遠くなりそうだった。

 

 放送が始まると、吉田さんの生涯のページをめくるように、表面的に紹介されているようで、普段の吉田さんを良く知っている人達は、物足りなさを感じたのではないだろうか。

 吉田さんを知らない人達が、この番組を見て、吉田さんの真心が伝わり、共感を覚えていただけているのなら、とそれを願うばかり。

 吉田さんの死後、残されたノートや、写真、吉田さんと親しかった人達の証言から、制作されたものだから、吉田さんという存在が、ドラマティックに描けていない。

膨大な取材をされて、使った資料は、五〇分に収める為に、カットされたという。

吉田さんの、生の言葉、生きた動き、ユーモア、生のインタビューに触れることが出来なかった。吉田さんを取材し、存在に触れ、その中で、出来た映画は、感動的で、生きている吉田さんに会えた。

 永遠に心の中で、生きている吉田さんがいた。

人間としての、吉田さんを、深い心の旅を、描けていないように、私には思えた。

主のいない、アトリエ。片付けられたアトリエ。映画では、吉田さんのアトリエで、吉田さんが、いつものように、絵画を動かし、笑いがあり、そのままの、飾らない、普通の吉田さんがいた。吉田さんがカメラに向かって語りかける、普段着の吉田さん、テーブルの前で、互いに話をしているかのような、吉田さんに会えた。

 そういう吉田さんを、吉田さんを知らない人々に知ってほしい。心と心が響き合い、共感しあえれば。

 私の独りよがりか?偏見なのか? 繰り返し、ビデオを見た。三度目に、目頭が熱くなった。視点を変えて見る事によって。吉田さんと深い絆を最後まで持ち続けた人達の真心に、深い感動を覚えて。井田さん、上原さん、佐藤さん、吉田さんと心を一つにして、生きて来た人々の、今、生きている人々の真心に。

 何故自分は絵を描いているのか、表現の手段にすぎない。大切なものは、ここにあって、それは無限のもの、表現しつくせないもの、神の望まれもの、神の心、、真心やな。

吉田は、画家、吉田ではない。絵を描いている、一人の人間としての吉田やな。人間として、最も大切なものは、神からさずけられた、神の命。真の心。ここにある(と胸をさされる)。見えないけれど、真剣に、神に問えば、お祈りすれば、神様は、自分が何をすべきか、答えてくださる。

 吉田さんは、そうおっしゃっていた。

12枚の絵の裏側に、吉田さんが、魂を込めて書かれた文字に、世界中の、人々に、等しく神に与えられた、神の命を授かった人々に、吉田さんのメッセージが込められている。中心を囲む内側には、表現しきれないものを、表現しようと試みる12枚の絵画という表現形態を使った宇宙。