すいか、甘いか、すいかのお話

 

 

一昨日、母の冷蔵庫に入れて帰った、すいかが気になっていた。

食べてなければ、痛んでしまっているかもしれない。

 母の部屋に入り、早速、冷蔵庫の中を見た。すいかを入れていた容器がなくなっている。 洗面所に、洗った空の容器がある。

「お母さん、すいか食べたの?」食べたことを、忘れている母に聞いてみると、以外や、

「ああ、食べたわよ。美味しかったわ。」

母はすいかのことを覚えていた。

「昼ご飯、何食べたの?」と聞いても

「食べてないよ。」と答える。

「何か食べたでしょ。」と再び聞くと、

「なんか食べたのでしょうけど、覚えてないわ。どうせしょうもないものだわ。」母の答えはいつもこう。

でも、今日は違った。しっかり覚えていた。

「すいかは、とても甘くて美味しかったわ。あなたも食べれば?冷蔵庫にまだ入っているのじゃない?」

 今日の母は、頭が冴えている。もう一つ聞いてみた。

「お風呂に入ったのでしょ。」

「今日は入ってないよ。あなた、入ったの?気持ちが良いでしょ。」

「お風呂に入られました、と言ってたよ。」というと、

「そういえば、入ったわね。ちょっと浸かって、すぐに出て来たわ。しょうもないお風呂。」と大して嬉しそうな顔はしない。けれど、お風呂に入った事も覚えている。最近、お風呂と食事に関しては、あとで聞くと、一度は否定するのだが、聞き直すと、思い出すようになった。

 少し、頭がしっかりしてきたのだろうか。ぼけていたのに、ホームに入って、しっかりして、家に戻った人がいる、と聞いた事がある。母もそうなら、嬉しいのだけど。

 去年の6月から8月にかけて、病院に入院していた時にも、毎日のように、すいかを持参した。食べやすいように、切って、タッパに入れていく。

 母は、美味しいと喜んで食べていた。掃除夫にも、勧める。

「もうこれで良いです。ご馳走様でした。」と言う掃除夫に、もう少し、もう少しと勧める。

「内緒にしてくださいね。でないと首になりますから。」と言いながら、モップを置いて、母からもらって食べていた。

 最近のすいかは、糖度が提示してあるので、甘いものを選ぶことが出来る。

昔は、果物屋に並んだ、丸ごとのすいかを買う時、叩いてみたりして、熟れぐあいを探ってみる。果物屋さんの技だった。

 ビンビンと張っている、音の冴えたすいかが甘い、音のにぶいのは、まだ白くて熟れていない。割ってみなければ、当たり外れのあるスイカだった。

 今は、丸ごと買うことはない。4分の1か、6分の1、真っ赤に熟れて、新鮮なものが買える。糖度は12度か、13度、甘くて美味しいに決まっている。

 切ってタッパに入れると、4分に1が丁度、一杯になる。私は切り残った、すいかの、まだ甘さの残っている部分を食べ、さらに残った白い部分を、皮から切り離して、軽く塩をしておく。瓜のような味がして、淺漬けになる。

子供の頃、白い部分にビタミンがあるのよ、と母は言いながら、少し赤身が残っている部分を食べ終わると、包丁で皮を取り、お漬け物代わりに、塩をふっていた。そこにビタミンが豊富なのかどうか、知らないけれど、母をまねて、同じ事をしている。

 両親共々、放任主義だったので、ああしなさい、こうしなさい、とは一切言われた覚えはない。

 自分で考え、決める。自己責任はついて廻る。変に教育されるよりは、その方が良かった、と今では、思う。

 父の言葉、母のしぐさから、自ずと学んだことが、身についていたり、私の思考を支配している。