苦い思い出

 

 帰り道、プラスイタリーという方向に歩いて行くと、懐かしい駅が。

 パリの語学学校に、一月の短期学習を申し込み、初めてパリで暮らすように滞在したホテルがある、最寄り駅だった。

 このあたりに来てみたいと思いつつ、何度もパリに来ていながら、素通りしてしまっていた所だ。

 駅から、ホテルまでの道に、以前にはなかったレストランや、カフェ、バーが並んでいる。何にもなかった。暗い道を、大きな旅行鞄を押して、ミンクのコートの上に、レインコートを着て、汗だくになって、この駅の階段を上がって、外に出た事を、昨日のように思い出す。

 パリはあぶないから、ミンクのコートを着ていると、スリにあうかもと、上から隠して、地下鉄の駅を乗り換え、階段を何度も上下して、やっとたどりついた。

 日本から、安いホテルを探して、サニーというアメリカ名前のホテルを予約した。

1ヶ月の語学学校で、家庭滞在の紹介とホテルの紹介があったが、一人で探した安ホテルだった。部屋には風呂もシャワーもないが、ベッドは二つあり、片方のベッドを荷物おきにして狭さをしのいでいた。

 パリで絵の勉強に来ている従姉妹に電話をすると、モンマルトルのアパートから、タクシーで飛んできてくれた。

 髪にパーマをかけた彼女は、厚化粧で、以前に父達と観光で二日間寄った折に会った人とは思えなかった。以前は貧しい学生だったけれど。

 「何かあったら、すぐに連絡するように」と。

彼女は、そのまままた、タクシーで帰って行った。

 それからの毎日、サンミッシェルにある、学校に通った。朝食は、バケットとジャム、バターの簡単なもの。昼食は、学校のでできた仲間と、近くのレストランで。

 スイス人の女性がいて、彼女の誕生日だと言って、イタリアンレストランに招待してくれた。彼女は、16歳になる娘さんがいて、フランス語も上手だった。仕事の休暇を使って、パリにやってきていた。

 ある日、ホテルのベッドを焦がしてしまった。携帯の湯沸かしコップを置いてしまっていたことを忘れていたのが原因。

 ベッドの中まで、焦がしている様子。どうしようかと散々思案したあげくに、知らぬふりで、チェックアウトした。

 つまり、逃げだしたというわけ。ホテルから、連絡があるのではとびくびくものだったが、何も言って来なかった。

 サニーホテルは、以前のような安宿ではなく、二つ星のホテルに昇格していた。

部屋は、シャワーか、バスタブが全室に備わっている。値段も高くなっていた。当時の面影はない。

 ホテルから、ゴブラン通りを経て、プラスイタリーへ。

途中、足が痛くなって、通りすがりの靴屋に入る。どれも、足に合わない。ロンドンに行くのに、この靴しか持ってきていない。合うのがあれば買いたいけれど、100足買って、ぴったりなじむのは、一足か、二足という、五木寛之の言葉が浮かんでくる。

 先日、インドを旅する、五木寛之の足を見て、

「これが、その貴重な靴の一つなのだ。」と感心した。

 今日、かれこれ、5時間歩いた。腰は張っている、これだけ耐えられる靴なんてそうあるものではない。不細工でも、これで我慢しよう。

 重い足をひきずって、中華のスーパーでお米を買った。

 店員が、「閉店ですよ。」と叫んでいる。お米だけは確保できた。