心温かいプレゼント

  紅葉

出産祝いの内祝いに、温かいマイクロハイバーの式毛布が送られてきた。何年か前に、デパートの閉店セールで、一つ300円のマイクロファイバーを4枚買った。それを使っていた。丈が120センチしかなく、よれて使いにくいのを我慢していた。何度も洗濯機にかけられて、温かさがなくなり、新しいのを買いたいと思いつつ、今年もなんとか、これでいくか、と諦めていた。寒さがこたえるので、母には、温かそうなのを買って施設に運んだのだけれど、自分のものとなると、あるもので我慢しようという貧乏性。

 だから、若い人達に、余分な出費をしてもらいたくない思いで、お返しはしないでね、と釘をさしていたのだけど、送られてくると、嬉しい。

自分では手が出ない(お金がないわけではない)けれど、ほしいなあ、温かいだろうな、と寒がり屋の私が、母の買い物に行くたびに、憧れていた品物をいただいたので、喜びは倍増。息子にも、ブルーの同じものが届いた。

 貧乏性の私は、それを果たして使うかとなると、躊躇してしまう。母の洗い替えに持って行ってあげよう、なんて。アメリカで、息子のガールフレンドが娘さんと、選んでもらったプレゼントは、ピンクの可愛い花のついたムートンのスリッパだった。とても温かそう。裏が滑り止めになっているので、母が施設で使うのに、持って行ってあげたくなる。でも、私に、と選んで下さったのだから、とも。

 使うのは勿体なくて、見ては、楽しみ、まだ履けないでいる。

 私がほしいな、と思っているものをいただくと、喜んでもらいたい人がいる。きっと、内祝いを買いに行った、姪は、自分があったらいいな、と思っているもの、ほしいものを選んで買ってくれたに違いない。

私の貧乏性は、父母譲りだ。

父も、母も、子供達や孫からもらったプレゼントを使わずに、なおしこんでいる。もらった手紙やはがきも大切に取ってある。あげる方としては、自分の必要だと思うものをプレゼントするのだから、使ってもらわなければ、甲斐がないと、以前は思って、不満だった。

 でも、そうではなかった、と今思う。嬉しさを、父母はそのまま大切にしまっていたのだ。

プレゼントをあげた人の所に、手つかずのままで、やがて戻って行く。それで良いのだと思う。物が、思い出と心を永遠に繋ぎとめてくれる。

母は良く言っていた。

「使わないで置いていたら、誰かがもらってくれるでしょう。ほしい人が使ってくれるでしょう。」

父にプレゼントすると、「おおきに、おおきに」と言って、逆に小遣いをくれる。そんな時、「そういうつもりで、してるんじゃないのよ。お金で返してもらったら、何にもならないじゃないの。」と私は逆に不満をぶつけたりした。

そうではなかった、と今思う。

父は、本当に喜んでくれていた。その上、生活が大変なのに、と私を気遣ったくれていた。お金を使わせたくなかったのだ。水臭いなと思ったが、その逆だった。父の喜びと、愛情の表れだった。