森繁久弥さんは「屋根の上のバイオリン弾き」のテヴィエ

  

 

 森繁久弥さんが、亡くなった。96歳、老衰。大往生だ。神様から授けられた、命を、燃やしつくして、亡くなられた。燃やしつくには、地獄のような日々を、潜り抜け、焼かれる苦しみを、肌に受けながらの人生だった。

徹子の部屋」には、何度も出演されているので、そこで聞いたのだろうか、それは生易しい人生ではなかったようだ。誰にでも、優しく、ユーモラスな言葉で人を温かく包みこむ。森繁久弥さんを、嫌いだと言う人は皆無ではないだろうか。

森繁さんは、過去にこだわらず、終わってしまった事には、振り返らない人だった、潔い人だった、とコメントされていた。

森繁さんは、「潔い生き方をしたい。」と対談で言われていた。「死ぬ時は、パッと散りたい。桜の花が散るように。桜の花は、潔い。」と言われていたことが思い出された。

 中耳炎の高熱で、死の淵をさまよった、戦争時代の話をされている時にも、生鯖の虫が大腸を侵して、芝居を登板した話なども、ユーモラスに、聞く人を楽しく笑わせる。大変な体験をされても、生鯖は、食べているという。

 地獄を潜り抜け、死ぬ覚悟は、いつでも出来ている人だった。希望を失い、絶望の淵をさ迷った人だから、ユーモアを大事にしている。人を、どうしたら、喜ばせることが出来るだろうか、人に接する度に、森繁さんの心が望む。

「笑い」は、現実の苦しみ、辛い「私」から、解き放たれて、「喜ぶ私、幸せを感じる私」へ誘われる「時間」だ。

森繁さんが、人を笑わせるのは、森繁さんという人の心に、「孤独感や寂寥感」がいやというほど、詰まった人だからだ、と私には思える。

 奥様が亡くなられてから、森繁のユーモアが少なくなった、という。テレビでは、奥様が面白いネタがあると、切り抜きをしておられたので、そのネタがなくなったから、と言っているが、果たしてそうだろうか。

 人を笑わす気力が薄れたのだ。奥様に先立たれ、肩肺を奪われたから、心が半分になった。更に、幸いの息子がさんが亡くなった時には、ご自分の不幸を、受け止めるだけの余裕が、もう消え失せてしまったのだろう。

 

 

 親しく交際されていた、方々は、皆、森繁さんから、(温かさ、優しさ、笑い)をもらった。ここ、数年、誰も森繁さんと会っていなかった。

家族と、孫、ひ孫達に囲まれての生活で、孫の名前は覚えていない。悲しみが余りに深すぎると、その悲しみから、逃避する場所は「忘却」だ。

 忘却の中に、身を沈める事で、人は生きることが出来る。

森繁さんは、(人を笑わすことで、「忘却の幸福な時間」を共有し、生きることに耐えられなくなった時、「忘却」という幸せな時間の中に、身を置かれたのだろう。

桜の花が、パッと咲いて、命の限りに咲き切って、潔く、散るように死にたい。老衰というのは、やはり桜花と同じ。燃え尽きして、亡くなられた。

森繁さんが、ライフワークだと言われたミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」は、森繁さんの人生そのものを映している。

私は、2回、森繁さんの、テヴィエを観る事が出来た。私に取って、宝だと思っている。森繁さんが、引退されて以来、何人かのテヴィエを観たけれど、森繁さんでなくては、変わりはいない、と思ってしまうほど、心に、目に焼き付いている。

 ニューヨークのブロードミュージカルでも、森繁さんのテヴィエが恋しかった。

サンライズ、サンセット、陽は昇り、陽は沈む。喜びと悲しみを乗せて、、、、」