静かで、安定した、生活

 

 

以前は、毎日のように、母に会いに行っていたが、それがかえって、母には悪いと施設の代表から言われ、施設の職員も、やりにくいと言ってると言われて以来、日を置くように努めていた。母は、静かで、安定した生活を望んでいるのだから、私が母を連れ出すと、その夜は興奮するのだ、と。気管支喘息もあって、咳が出るので、アメリカから帰って来てから週に1度のペースで、最近は、4日に一度くらい。

 母の補聴器を持って来てほしいと、ヘルパーさんに言われたので、弟の家に電話して、冬物と一緒に、母の施設に面会してほしいとお願いしていたが、日曜日に行けなったので、母のマンションに置いてあるから、私が持っていくようにと電話があった。

 火曜日、友人から午前中に電話はあり、仕事をすませて、母の施設にでかけるのが3時頃になってしまった。マンションに寄り、扉をあけると、紙袋の包みが3つ、私宛の名前が書かれていた。真っ暗なマンションの入り口に置かれた、母の衣類を入れた袋を見て、私は泣いてしまった。

 中のものをより分けて、取りあえずのものを、一つの袋に詰めなおした。駐車場のチケットがあるので、母に、花が買いたいとしばらく店内を探したが、持って行ってある花瓶が小さいので、やめた。其の花瓶は息子が、修学旅行で買って来たお土産だった。

 息子は、小さい頃から、陶器が好きだったのか、母にも、とっくりを買って来ていた。母は、息子が買ってきてくれたものだから、と時々食器戸棚を見て、嬉しそうに言っていたことが思い出される。母も、陶器を買うのが好きだった。大切にしまって、使わなかった陶器の数々が、主なき、棚に眠っている。

 母の施設に着いたのは4時前になっていた。前夜、買っといた、野菜ジュースの箱、ユニクロで買った衣類、母の衣類と補聴器、それにいつも持参しているバッグを一度に持って、ベルを鳴らし、開けてくれるのを待っていた。今日は、社長(代表)は一階にいないので、ほっとする。

 随分待たされて、エレベーターから降りて来たのは、社長と職員、それにヘルパーさん。自分達の都合次第で、平気で待たされる。

(「お母さん、今日インフルエンザのお注射、すませましたから。」と社長が言った。

「ありがとうございました。」と私。

二人は、どこかに出かけるようだった。ヘルパーさんが、「今日は面会が多かったです。」と言う。

面会ノートに、リア王爺さんの娘達がそろって、3人記帳してあった。彼女達は、頻繁に父親を訪れ、差し入れをしている。毛布など、もの周りのものも沢山持参して来る。

 4階に上がると、母は後ろ向きで、自室の方に入ろうとしていた。ヘルパーさんは、2人いた。

まず、衣類を入れて、補聴器を試してもらおうと、母の耳に入れるが、すぐに外してしまう。

「私もこれと同じの持っていると思うわ。」と箪笥を探す。

「あなた、これ使ったら?持って帰りなさい。」

「これはお母さんのよ。弟に家で使ってたものよ。」外しては、私が耳に入れる。母はすぐに外して、私の声が聞こえない。

だんだん、私は声が大きくなり、やりきれない。

 持参した洋服を、私に持って帰れ、と言う。

「ここでは、たいして要らないから、あなた着てよ。」なのだ。

「お金は使わないように、私は要らないのよ。」

 夏物を引き出し、袋に詰め、持参した衣類を入れる。他の人のものが入っている。

母は私が、勝手に、自分の箪笥を触るので、不満なのだ。コップもしまってある。

 補聴器は、どうしてもしないので、ヘルパーさんに渡すと、母の箪笥に入れておき、いる時に取りだすようにします、と。

母は、施設に入って以来、補聴器を使わなくなっていたので、使えなくなってしまった。

 代表が、入所時に「家では管理出来ません。補聴器は、皆さん、嫌がって、しませんよ。」と言っていた。当時は病院で毎日使っていたけれど、3か月使わないと、もう使えなくなっている。耳が聞こえない方が良くなってしまった。

それと並行するように、母の認知症は、確実に進んでしまった。話を辛抱強く聞いてあげる人がいない。テレビを見ても、興味がわかなくなっている。表情が最近、乏しくなっている。私が外に連れ出せなくなったからだ。他の人と同様に、表情がなくなってきた。

 これが、静かで、安定した生活というのだろうか。牢獄に閉じ込められ、もの言わぬ人になって行くのでは?