母は自由人になった

 

母に会いに行った。戸口で待っていると、ヘルパーさんと母が一緒に階下に降りてきた。母は、すっかり外出の支度が出来あがっている。

待っていたのだろう。今日は、午前中に、公園に行って、お弁当を食べたらしい。母はそのことを覚えていた。面会帳に記入をすると、面会に来た人の名前が書いている。しばらく遠ざかっているので、連休の間に、誰か面会に行っているだろうと思っていたが、誰も行かなかった。

 母に会いに行くのは、ほとんど私一人だけ。母に、弟と妹に会いたいでしょうと聞くと、「あの人達は忙しいから。」と淡々としている。

以前は、行ってあげてほしいと願ったけれど、今はそういう期待は持っていない。私の問題ではなく、母と弟妹との関係なのだから、私は私なりに、他の人達は、その人なりの事情があり、愛情があり、気持ちに従って、行動しているのだから。

 母だって、別に来てもらいたいと思っていない。忙しいのだから、来なくて良いと思っているだろう。母は子供達を、そのような大人になるように育てたのだから、母が今受け止めている事は、母と父の、子育て教育の結果なのだ。

 私は、私なりに、他の人達は、その人達なりに、で良いのだと思っている。

私が気をもむ必要なく、母は、母の人生を考え、精一杯生きているのだ。規則正しい生活のお陰で、暴飲暴食に走らないお陰で、リウマチ炎症の数値は、順調に下がっている。身体は健康になっている。頭は益々呆けていく。ストレスがないので、長生きの秘訣を手に入れているようなもの。

怪我をしないように、転ばないように、気をつける事が肝心だ。死にたくない、と母が願っているのだから、生きる、生き続ける希望を抱いている。つまりは、幸せなのだ。

今日も、母が好きな「神戸屋」に連れて行った。

母は、他者への垣根を取り払ってしまっているので、自由人とも言える。交差点で横にいる外国人を見て、

「あれ、外国人やった。かっこいいわね。背が高くて、さすが外人さん。」

母は、あからさまに、その人を見て、笑顔を見せる。外人さんは、嬉しそうな笑顔で返してくる。二人の間に関係が生まれる。

神戸屋に入り、小さな子供を見ると、可愛い、可愛いの連発で、その子から目を離さない。手を振ったり、あやしたり。その家族が席を立ち、母に挨拶して、レジに行くまで、子供にずっと手を振っている。最後の最後、子供の姿が消えるまで、母は振り返って、手を振っていた。

モザイクのような、出来ごとの、組み合わせは、母の生きがいを形成している。