グループホームらしさのエピソード

 

最近、ブログを簡単に書けなくなっている。母のことをどう書いたら良いのか。書けないでいる。

グループホームは、まだ機能していない。3階はオープンしてから4カ月、9人の入居者がいる。4階には、まだ母ともう一人だけなので、

部屋は夜寝るだけで、日中はずっと3階の人達に交じって生活している。

 4階でグループが出来れば、落ちつくことも出来るかもしれないが、今の状態が長く続くということもある。入居を一旦は決めても、「まだ見られますから。」と施設に手放す事を躊躇している人もいる。ベッドや備品は入っているが、入居できる状態ではないという人がいる。自傷行為で、とても預かる自信がない。病院に入ってもらっているという。グループホームにも、費用の問題がある。母がいる所は、狭くて、設備も不十分だけれど、費用は他のグループホームに比べて安くはない。月に最低25万ほどかかる。治療費や私物にかかるものは別にいる。14、5万が平均だというから、遠くても、費用の安い場所を探して入る人もいる。

便利さ、設備、内容、費用など、条件の揃ったグループホームは、2年、3年、何時入れるかわからない状態だ。

 自由があって、人間の尊重を考えると、介護付きの有料老院ホームの方が良いのではないかとも考える。私の家の近くに出来たもので、33平米ほどの個室は、まだ空きがある。19平米くらいの部屋は全て埋まっている状態。各地に展開しているホームで、費用も、有料にしてはそれほど高くはない。といっても、入居金は2千万、毎月の費用は30万だ。話に聞くと、もっと高額な所も多いので。でも、普通の生活者にはとても無理。公的な援助のある魅力的な施設は、何百人待ちというのが常。ほとんどの人が、在宅介護で順番を待っている。そういうところに入れる人は幸せだと、誰もが言う。

 家族が泊まるのも自由、冷蔵庫も置ける、トイレとキッチン付きで、介護もついている。認知症も、そうでない人も混合型の施設。

電話で問い合わせると、プライバシーを重視して、独居に近い。家族が泊まるといっても、いつもというわけではない。

それなら、自由度がない、人間尊重にかけるのではないかと非難しても、寄り添って生きる方がより人間的な気もする。少しのものもわけあって、食べてこそ美味しいのかもしれない。お風呂も一緒だから入るようになる。

今日、私が帰る時に、介護者が、3つの袋に、住人達のバスタオルや下着で一杯になったものを運ぶ所だった。いつもお手伝いしていただくのよ、という、聖心のシスターは、早速一つを抱えている。

私を下まで送って行くという母に、「これを持ってください。」という。母のバスタオルが2枚と変えの下着が置いてあった。母はそれをかかえて、一緒にエレベーターに乗り込んだ。「私も行くわ。」ともう一人の同じ階の人。小さなエレベーターは満員。「これも運動、歩くことにもなりますから。」

私が下りる階で、母も一緒に降りようと身体をよじる。「お手伝いしてくださいね。」と言われて、そのまま階下の風呂のある場所に。

(気をつけて帰ってよ。)母の大きな声が内部から聞こえる。小さな母は、明日入れてもらうのに必要なバス道具をかかえ、埋もれて、声だけが響いていた。ちょっとした、温かい、ほのぼのとした余韻が残った。