飢餓

 

手術後の身体を押して、点滴棒を押しながら、面会所にやってきた婦人がいる。同室に入ってきた若い患者さんが、おかきやお菓子を、ぼりぼり噛んで食べている。まだ食べることを許されていないので、その匂いに我慢できなくて出てきたと言われる。

 手術後の身体で、それだけ食べたいという欲求があるのなら、健康な人間が空腹をかかえているときに、町に溢れている食料品や、レストランのウィンドーに飾られているメニューを見て、到底我慢の出来るものではないだろう。

 空腹で我慢できなくなると、店先に並べられた果物に、自然と手が出てしまっても、当たり前のことだろう。それを罪とは言えるだろうか?

ニューヨークで個展をしていた画家が云った。「食べられなかった経験をしていますから。」従妹が持って行った食料品の多さは、その言葉で納得が出来た。従妹も、その人も、空腹をかかえて、極限状態を体験しているのだ。

そういえば思い出す。従妹がまだ、パリのエコール、ド、ボザールに通っていた頃、美味しそうなレストランを見ながら、学校の食堂まで歩いて行った話を。それも毎日食べられたわけではない。空腹ほど辛いものはない、と言っていた。

 吉田さんも、そういう経験は、何度もしておられたのだろう。頼って来る人に、空腹を癒してあげることを大切にしておられた。吉田さんのアトリエにやってくる人達は、食べ物を求めてやってきていたのだろう。その一人の方は、ゴミ箱をあさった経験もあるとか。

母の妹、私の叔母は、地方巡業の歌手をしていた。淡谷のり子の前座歌手だった。紫富士子という芸名で、今は大女優の森光子とも一緒になったと聞いている。ずいぶんおもしろい経験をした、と。その中で、彼女は何日も空腹をかかえて、旅をした。飢餓ほどおそろしいものはない、と言っていた。

 叔母の家は、いつも食べ物で溢れていた。果物やお菓子がテーブルに盛り上げてあった。誰が来ても、いつでも食べられるように、と叔母は言っていた。その意味が当時はわからなかったけれど、飢餓への恐怖心が抜けなったからだろう。

 弟の家族がパリに来るので、従妹に頼んでホテルを取ってもらったことがある。従妹は、彼らに食べてもらうのだと、お寿司と一緒に、おうどんの用意をしてホテルにやってきた。私は彼女に、「そんなにまでしなくても。」と言ったら、「私がしたいのだから。」と。

 彼女は、客を呼んで、食べてもらうことが好きだ。毎日かかさず、戸外に来るハトに餌をやり、野良猫や犬に餌を与える。ニューヨークで会った画家は、パリに来る時に、どっさり食料の土産を持って来てくれるという。彼女は、その人の滞在中、日本食を持参しているらしい。「やさしい人です。」と従妹を褒めていた。

 ピアニストのフジコ、へミングさんも、空腹で死にそうだった時に、道にオレンジがころがってきた話をしておられた。神様のプレゼントだった、と。貧しい暮らしの中で、野良猫を何匹も飼って、食べさせる。そういう善意が、今の彼女のピアニストとしての生活を与えてくれたのだと話されていた。

 飢餓を体験した人たちに共通するのは、「食べさせてあげたい。お腹を満たしてあげたい。」という強い欲求だろう。そのおもいやりと,優しさ、は、飢餓の恐怖、ひもじさの体験から生まれるものかもしれない。