あたりまえに生きる

 

先日、NHKの「この人に会いたい」という番組で、北陸の地に、道元が開いた「永平寺」の78代貫主宮崎亦保さんの生前のお姿が放映されていた。106歳の長寿で、お話がとても新鮮で面白かった。

 「当たり前に生きる」ことが悟りだと言われた。言葉を換えれば、道元の[あるがまま]ということでしょう。

「自然は偉い、花や鳥は偉い。見られようと,見られまいと、美しい花を咲かせ、命を生きている。1回マネをすれば、マネで終わるが、

一生真似たら、本物になる。」

学ぶ、ということは、真似るということ、修行とは、高僧の所作、生き方を生涯真似ると内に、自らの悟りを開くようになる、ということでしょう。

 人間も、自然界に生きるものの仲間で、死ぬ為に生きているのではない。生きることだけを考え、当たり前に、あるがままに、生きる事が、悟り、その当たり前の姿が、「座禅」だということでしょう。

 当たり前に生きる、ということの何と難しいことでしょう。あれこれと思い悩み、どうにかならないかと悪戦苦闘するのが、人間の常でしょう。人と比較して、劣等感を抱いたり、裕福な人を羨んだり、健康に心配があるとくよくよする。平常心ではいられないことが、次から次に起こってくる、それが社会に生きる人間の常なのです。そういう状態から、ただ座って、ひたすら座る、座る事を目的にして座る、それが座禅です。

 頭の中の雑念を取って、ぼーっと座る。空っぽにして座る。座る痛さも忘れて座る。「座禅」が悟りの境地というわけです。

 この境地を、実際に生活する場でも実践できているのが、自然であり、花や鳥たちだということです。川を流れる水、岩であり、木々や草、川の流れに乗って生きる魚達、自然現象です。

 あれこれ悩みがあり、苦しい重荷を背負っている時には、重い荷物を投げ出して、ひらきなおりましょう。どうでもいいと、一旦ほおり出すのも良いかもしれません。ごろ寝でもなんでもしてください。別に座禅でなくても、良いと思います。頭の中を空っぽにして、汗を流すこと、運動も良いでしょう。当たり前に生きる、生きているように生きること、自然と道は開けてくるのではないでしょうか。