夏時間の庭

http://natsujikan.net/

コロー

 どこかで見たな、と思いながら見ていると、そうだ、去年の春に、パリの映画館で見た映画だった。

パリ郊外の画家のアトリエ兼田舎家に、子供3人と孫たちが集う。その日は、母親の誕生日、夏の時間。

画家の姪にあたるのが、3人の子供たちの母親で、彼女は、夫の死後、すぐに元の姓を名乗り、画家のポールと

共に暮らし始めた。以来、ポールが亡くなってからも、彼の愛した家具、絵画に囲まれて、家政婦と共に、暮らして

来た。75歳の誕生日に、彼女は、長男を呼んで、自分が亡くなったら、美術価値の高い、品々を、美術館に寄付し、売れる

ものは売るように指示する。

 彼女が亡くなり、長男は、思い出の多い、家を子供たちの為に残そうと提案するが、あとの二人は、中国とアメリカに暮らし、

それぞれの事情で、売って換金したいと言う。長男は、あとの二人に従い、家を処分せざるをえない。コローの絵画だけは残したいと

思うが、二人から買う事は出来ない。

 母親は、二人が海外に住んでいることで、そうなることはわかっていた。莫大な相続税がかかるので、ほとんどのものが、美術館への

寄付に。残された遺品を処分する日、甥の運転するタクシーに乗せてもらって、家政婦がやってくる。

 長男から、何かほしいものを、と言われて、いつも奥さまの為に花を生けていた花瓶を一つもらった。

「高価なものはいただいても困るから。」と花瓶をかかえて、連れてきてくれた、甥に言う。

オルセー美術館に、母親が使っていた、アールヌーボーの家具が、飾られている。長男夫婦は、通り過ぎて、あまり

見られることもない家具を見て、悲しむ。棚の中に、家政婦が持ち帰ったのと同じ作家の花瓶が展示されている。

「彼女から来た手紙を読んで泣けてきたよ。」と長男が言う。

「返事書いたの?」と妻。

「書かなきゃ、だめよ。」

 美術品としての、本当の価値は、生活の中で、花瓶に花を活け、毎日楽しむこと。家具や、花瓶は、美術館の中で、見るものではないけれど、

愛用した主を亡くした、家具もまた、本当の命を失ってしまうのだろうか。作品としての価値として、独立した存在なのだろうか。

 少なくとも、まだ、老家政婦が、主なき花瓶に花を飾り、主と共に生きていることは確か。

家が人手に渡る前に、子供達に開放する。学校の友人達が大勢集まって、にぎやかなパーティーの準備をしている。

 長男の娘が主催した、パーティー。彼女はボーイフレンドを探して、おばあさんと良く散歩した思い出の場所に来る。

「おばあさんが、私に子供が生まれたら、この家に連れて来てねと言っていたのよ。」と涙ぐむ。

映画は、そこで終わっている。

 家も、美術品も、人の生き方、人生の移り変わりとともに、変化していく。画家が精魂込めて描いた絵画も、愛蔵品も、愛着のある生活の道具も、全て。そのことを、祖母は知っていたけれど、彼女は、いつまでも生き、ひい孫の顔をこの家で見たいと願っていた。その事はかなわないけれど、彼女の素質、本質、命は、孫の思いでと、その子供の誕生によって受け継がれていく。美術にかける愛も、受け継がれていく。