認知症であることを隠したがる人も多いけれど、隠してはいけない、むしろオープンになけけれないけない、と書いてある。
けれど、女優の南田洋子が、カメラが入って、ドキュメンタリー番組を放映した、矢先に脳梗塞で倒れた。カメラは、おそらくある程度の時間をかけて、番組を作っているから、その間、彼女は、カメラマン達に随分気をつかっていたに違いない。認知症の人は、わからない、というのは大間違いなのだし、いくら認知症をオープンにと言っても、本人が認知症であることを認めたがらない場合は、深く傷つく。
母が通っている医者は、母の前で、「ご家族は認めたがらないでしょうが、認知症であることを納得された方がいいですよ。認知症が進むと、幻覚とかいろいろ出てきますから、薬のせいだとは言えないですよ。」と言った。
母はいつも「ぼけてきたわ。ほんと、忘れてしまう。だめになったわ。」と言うけれど、それは母の悲しみであって、自分が本当に認知症であることを認めているわけでなない。 医者が、そのような言葉を使うことは、母に取ってショックに違いない。母はそれに対して何も言わないけれど、医者のデリカシーのなさ、職業的な無神経に、私は苛立ちを禁じ得ない。
小さくなった母を、背後から包むように抱きしめる。「お母さんが生きていてくれないと、私は希望がなくなるのよ。頼りにしているのよ。」と耳元で言葉にする。
母は嬉しそうに、「生きていなければ何も出来ない。死んでしまったらおわりやものね。 焼かれるなんて、いやだわ。恐ろしいね。」と繰り返す。
その言葉が、また私の胸を締め付ける。
皆、こういう道を踏みしめて、生きていくのだろうか。人間は生まれてくるのに、死ぬために生きているというのは、全く理不尽な話だ。
私達は、死刑執行を待って生きている、と言った作家がいる。いやだ、そういう考えは、と最近、若さの薄れている中で、強く感じるようになった。
それよりも、私達の中に、死は存在しない。だって、死を体験してもそれを知覚することは不可能だから。私達は知覚の中で生きている。生だけしか、存在しない。ひたすらに、今日を生きる、母の病気も治る可能性があると信じて、今日を生きていこう。