書き言葉と話言葉

 

 

言葉は、パロール、風だ。言葉は言の葉、散っていく。話は消える。風となって、去っていく。パロールに責任はない。パロールは軽やかだ。たとえ、言論の暴力だと非難しても、消えてゆく運命にある。どれほど激しい夫婦喧嘩をしても、そんなことは忘れたと、繰り返すことも可能だ。

書き言葉は、絶対的だ。なかったことには出来ない。引き受けなければならない、責任が伴って来る。私のフランス文法書の本に書かれた、文字を見ると、なんとも辛くなる。母と口論の末に、文章にしておいてほしいと、つきだした本に、母が書いた文字。消そうにも消せない。そうだったのだと、心が痛み、母を思い、心が痛む。だから、文章にするには、よほどの覚悟がいるのだが、そういう事実を忘れて、最近になるまで、私は書き言葉に、神経を使っていなかった。去年の末に、ある人から来たメール、メールとはいえ、文章になったメール。厳しい文面で、イロニーを含み、怒りが。メールは消すことができるので、パロールに近いのかもしれないが。その反面、ブログは、掲載を取り下げない限り存在し続ける。それいらい、私は書くことをためらうようになった。掲載したブログを消去しても、消えない責任感が、私の意識に根差している。書かれること、それ自体が不愉快にさせる。人に読まれる事は、秘密の手紙を盗まれるようなもの。書かれた文字を引き受けることは、絶対的に烙印を押されるようなもの。パロールのように、無責任では通らない。

 

ある人から来たメール、頭がふらつき、動悸がおさまらず、昼食を食べることを忘れ、何度も反論と弁解のようなものを書いては、消し、書いては消した。夜も遅くなってから、気持ちを切り替えようとつけたテレビは目に入らず、明日、出先で待ち合わせた友人達を誘って、家に来てもらうことになっているのに、来客の用意をする元気もない。掃除機をかけて動いてみても、頭から離れず、脳溢血で倒れないかと、突きさす心の痛みと動悸に、なすすべもない。

人にアドバイスできるような人間ではない、と自覚する。そして、なおさらに、書くことの恐怖と責任を感じる。

もの書きは、恥知らずなものだと、ある作家の二番煎じで書いた事がある。書くことは、責任を引き受けること、孤独を引き受けること。

覚悟のいることだ。