アキレスと亀

  

 

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 カンヌ映画祭の常連になっている北野武が今年出品した「アキレスと亀」という映画が、梅田のテアトルで上映されていた。母を夙川の弟宅まで迎えに行き、歯医者さんの定期検診が終わってから、帰りは電車で母を送って、そのまま映画館に行くつもりだった。母を夙川まで送れば、映画の時間に間に合わない。一緒に行く?と誘って、映画館に。途中母は気になる様子で何度も「遅くなるからとお嫁さんに言っておかなければ」、と言う。「言ったから」というと、「あ、そう」と返事が帰るが、しばらくすると同じ心配をする。映画を見ていても、良く理解出来なくなっている。今見ている事を次々に記憶から忘れていくからだ。だから、ストーリーが繋がらない。それでも、おかしい場面が所どころに入っているので、母は結構おもしろがって笑っていた。場内からも、時々笑いが起こっていた。

 北野タケシは、「人間の馬鹿さかげんに笑いを盛り込みながら、それでも死ぬまで、そんなことやって生きていく人間」に、愛情を注いで映画を作っている。今回は、生涯絵を描くことに命をかけて来た「絵描き馬鹿」を透して、フロイド的深層心理を使って、人間が受けた傷や哀しみが、芸術の中で昇華されていく様を描いている。金権社会を批判しつつ、そういうことに無縁で、純粋に存在するもの、夢を追うことにしか存在しない真実を、亀に喩え、絵描きの夢に付き合って来た、けなげな妻が、一度は見離し、おいつくことを諦めるが、最後には、「夢」に追いつく、というお話。「芸術家っていうやつは、周りの事がなんにも見えない。この馬鹿野郎。コンチクショー、てめってやつは。絵描き馬鹿。」なんて自分を叩き台にして、恥ずかしながら、シニカルな笑いをも引き出している。

ノスタルジーを誘う、時代考証、登場人物のそれらしい時代の顔つき、造りものらしい

セッティングのような背景と自然との対照的な撮り方、映像の美に、独特のこだわりを持っているのは、タケシの映像馬鹿なる由縁。滑稽で、簡単で、あっけない人間の死に、笑いを造りだし、鮮やかな色を使って、一つのアート絵画を見るように映し出している。 ただ、北野タケシは、今回の映画造りで、少しやりすぎた感があり、おもしろがりすぎた感がある。彼はそれで満足していても、見る側には、「やるすぎ、過ぎたるはおよばざるがごとし」なのである。おそらくカンヌの観客も同じ事を感じたのではないだろうか。今度はどんな映画をひっさげて、登場するのだろうか、という期待に、肩が少しはりすぎたのではないかしら。 

 おだてられて、図に乗っている北野タケシの「アキレスと亀」でありました。