償い

 

  

  リーガロイヤルホテルの画廊で友人が個展をするのだけど、大阪は不慣れなので、と言う友人と紀ノ国屋の前で待ち合わせて、朝一にしか上映していない「償い」を一緒に見てもらった。先日、満席の立ち見で諦めた作品だ。パリからの帰り、飛行機の中で見たことはみたけれど、途中で居眠りしていた部分があったので、もう一度、きっちりと見たかった。映画館の大画面で見ると、全く違った作品のように感じる。

 衣装の細部、景色の色、人物の表情など、小さなビデオではとても味わえない豊かさで迫って来る。内容はわかっていても、全く違った映画を見たという印象が深い。

 この小説の映画化は無理だと言われたらしいが、時間と空間が、複雑に交錯していて、 イマジネーションの時間と、現実に起こる時間を、二重に映像で表現するという方法が何度か使われ、それが観客のイマジネーションを更に要求する。

 勿論、この小説は作家によって作られたフィクションなのだが、その中の現実では償えなかった、悲惨な現実を、作家のイマジネーションによって、「幸福なハッピーエンド」に書き換える。実際には、この小説家が13才に嘘をついた事によって、一人の有望な青年の人生をどん底に陥れ、戦場で悲惨な死を遂げさせ、彼を愛した姉も、戦下の犠牲者として死なせる結果になる。

 「戻ってきて。もう一度、やりなおす事が出来るわ。」と彼を励ます恋人からの手紙を胸に抱き、「岬の家に行きましょう。ここで待っています。」という写真を見ながら、恋人との幸せな場所に帰る事だけを夢見て、戦場で息絶えた恋人。同じように傷ついた戦士達の世話をしながら、彼の消息と帰りを待ち続け、地下鉄の崩壊で水死した姉。

 

リーガロイヤル、日比谷花壇

 私は、この小説に中で、作家が表現したかったのは、どのような悲惨な現実、退屈な人生、ドラマティックではない平凡な日常、戦時下にあっても、監獄の中に閉じこめられていても、人間は自由を得ることが出来るし、幸福になれるということなのだと思う。

 戦場で死んでいく恋人が、見続けていたのは、彼女とやり直せる未来、彼女を胸に抱くこと。姉の頭の中にあったのは、恋人への想い。共に生きる幸せ。取り返しの付かない罪を犯し、償いをしたいと看護婦になった妹は、作家への道を歩む。想像の世界の中で、彼女は現実から逃避することが出来た。「書いている時、ある種の幸せに浸っている」というマルグリット、デュラスの言葉が。「人は監獄に幽閉されている時、最も自由になれる」と言った、サルトルの言葉が。

 映画の中で、戦場で、食べ物を口にしながら笑っている戦士達のドキュメンタリー映像が挟まれている。彼らの幸福な、くったくのない笑顔。彼らは、現実の中にあって、想像の中で笑っている。