パリのプリゾニエ

 

  若い頃、パリに来て、そのままいついた人ならば、石に囲まれた圧迫感を感じないかもしれないが、日本で長く暮らしていた人が、突然パリにやってきて、そのまま9年間ものあいだ、パリの狭い一室の中で暮らして来た人がいる。よく耐えられたものだと思う。

 気ままなパリ、と言っても、言葉が話せない、つきあいは日本人ばかり、何をする目的もなく、9年もの間、パリに滞在した。

 最果ての町から一歩も出たことがなかった女性が、母親を送り出し、40年勤め上げた職場を定年退職した。フランスへの団体旅行で、始めて訪れたパリで、アパートを買わないかと持ちかけられた。安い買い物ですよ。彼女はとっさに判断した。彼女は、雪深い、因習的な町の、凡人が誰もやれなかった事がしてみたかった。

 

 

2度目にパリにやってきたのは、アパートを買うためだった。オペラ座に近いビルの一角にある、一部屋のワンルームで、窓からは向かいの建物が迫って見える。目を落とせば猫の額ほどの狭い路地があるだけ。何もわからない彼女は、パリに住みつき、生活に困っている日本人に、ご馳走し、付け届けをしながら、助けてもらった。

 彼女の田舎なまりを笑い、馬鹿にしているようなパリ在住の日本人女性達の集まりに顔を出し、付き合っていた。否、付き合ってもらっていた。どこどこのお歴々の奥さん達との付き合いに、貯蓄を随分使った。

退職金が懐を暖めていた頃は、気にしなかったが、年月と共に、底をつき、あとは年金だけが頼りになると、そう言う人達との付き合いもままならなくなってくる。金の切れ目が縁の切れ目、さしあげるものがなくなると、誰も相手にしてくれなくなる。その頃になると、パリでの生活には慣れてきたが、同時に体の変調も出てきた。高血圧が心配されるようになった。堅いパンをかんだ為か、歯がぐらつき始め、何本かの歯を失った。

 

 彼女の暮らしは、散歩と買い物を見て歩くことだけ。毎日店を見て廻るのが楽しみだった。言葉は習っていても、覚えることが出来なかった。メルシーと簡単なフランス語は覚えたが、家の管理や、書類などは、フランス語の出来る人に頼まなければ何もわからない。 波の神経の持ち主では、とうてい居続けることは無理だと思う。その上、決断力と大胆さ、肝っ玉が相当据わっていないと、とても持ちこたえられるものではないだろう。

 彼女は、パリに9年間暮らした。何もせずに暮らした。暮らすことを楽しむために。

9年の末に、食べ物が、高血圧に悪いと気になり始めた頃、パリのアパートの価額が、買った頃の3倍以上にはね上がった。彼女が買ったアパートは、以前の持ち主が倍以上の値段を払って 買ったものだった。ボトムで買って、高く売るという経済感が、彼女にはあった、ということだ。パリで散在した退職金がそっくり戻って来た。

 

 パリで暮らした9年間は、40年の勤務の末に、神様からもらったプレゼントなのか。それとも、これから先の、東北で暮らす終末への長い道のりでの、追憶という支えなのだろうか。パリのプリゾニエとしての苦労は、甘い感傷に染められているに違いない。