「昼顔」から「夜顔」へ

 

 

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 「昼顔」の登場人物達の38年後、彼らはどういう人生を過ごしてきたのか、欲望関係は、どう働いているのか、本格的に作品を作り始めたのは63才からという遅咲きの鋭才監督、世界の巨匠と言われる、マノエル、ド、オリヴェイラが、99才にして、「愛、欲望、心理」というフランス映画の神髄を、格調高く、上品なエスプリに満ちあふれた、美しい映像で、見事に描き上げた秀作、それが「夜顔」だ。 1967年に、ルイス、ブニュエル監督が、アルゼンチン生まれのフランス作家、ケッセルの「昼顔」を映画化した。ブニュリエルといえば、「欲望の曖昧な対象」が最も印象に残っているが、ダリと共に、シュルレアリスムの作品を作っていた。「昼顔」は無意識の夢、欲望といった、シュルレアリスムのテーマ作品の一つ。

 オリヴェイラ監督が、ルイス、ブニュリエル監督にオマージュを捧げたと言われるように、映像の中で、鶏が廊下を横切る場面が出てきたり、二人の監督が「欲望の対象」を同じように追っているようだ。

 パリのコンサート会場で、アンリ、ユッソン(ミッシェル、ピコリ)は、昔の友人の妻で、現在は未亡人になっているセブリーヌを見かける。彼は必死になって彼女を追うが、気づいたセブリーヌは、あわてて逃げ去る。アンリは、彼女が店から出てくる姿を見つけるが、彼女はすでにタクシーに乗り込んだ。アンリは店に入る。カウンターでウィスキーを飲みながら、バーテンダーに昔のセブリーヌについての話をする。近くのテーブルには、初老の女性と若い女性が、アンリの上品でダンディーな紳士ぶりを品定めしている。

 

 アンリは、友人をとても愛していた妻はマゾヒストで、他の人に犯されてるのを想像しながら、夫に抱かれている。やがて彼女は、夫のいない昼間、娼婦の館に通うようになるという話をする。バーテンは、話を聞いて「それでは夫にサディズムだ。そこの女達が天使のように見えます。彼女達はお金の為に身体を売っているのだから。」と言う。

 セブリーヌをやっとのことで説得して、二人は会うになる。アンリの秘密を彼女に打ち明けると言う条件で。

 セブリーヌは、「自分はもう以前の私ではない。夫が亡くなって、欲望は消えてしまった。今は修道院に入りたい。安らかに過ごしたいだけだ。」という。「夫に自分の秘密を打ちかけたのかどうか、夫は知ってしまったのかどうか、夫が泣いていたわけは?。それだけが知りたい。その為にここに来た。」と彼女は言う。

 アンリは、「アルコール中毒になっただけだ。」と言いながら、彼が聞き出したいのは、彼女の欲望がどうだったか、昔の彼女に引き戻そうとするばかりで、彼女が聞き出したい話は一向にしない。彼女は椅子をけって、部屋を出ていく。鶏が廊下を横切る。

 「昼顔」以来、作品の登場者であったアンリは(背後にはこの作品を作った99才の監督)と同じ目線で「夜顔」の中に登場している。彼女の秘密を、共有しているということで、彼女への欲望が生き続けてこれたし、彼女との絆が切れなかった。彼女を今も思い続けている。彼女を実際に抱くことはなかったけれど、誰かに侵される彼女を想像することで、アンリの欲望は更に燃え上がっていた。セブリーヌに会えなかった38年間、アンリは彼女のことばかり思って、彼女への渇きを、アルコールで埋めていた。今はすっかりアルコール中毒になった。

  「昼顔」の中で、娼婦舘にやってきた奇怪なサディストが、彼女に狂って家に押し入り、夫を撃ってしまう。半身不随になった夫を、彼女は献身的に看病することで、静かで幸せな二人の生活が送れるようになる。昼顔としての欲望は消えてしまう。エロスから、アガペに移行した愛の関係のようでもあり、償いという充実感で終わっている。それ以来、38年ぶりにアンリと会った彼女は脅えて、昔の秘密を知っているアンリから逃げようとした。

 彼女はアンリを昔も毛嫌いしていたし、今も会いたくない人物だ。セブリーヌの閉じこめていた欲望が、アンリへの憎悪(サディズム)と、恥辱感(マゾヒズム)によって、心理の底に生きている事を知らされるから。最後に彼女が、テーブルをけって、「もう知らなくてもいい。」と言って出て行くと、アンリは一人笑う。テーブルを片付けに来たボーイが、置き忘れたハンドバッグをアンリに渡すと、彼は彼女の財布の中からお金を出して

ボーイ達に振る舞う、というチャッカリしたユーモアもフランス的だ。アンリのセルビーヌへの愛の欲望は、消えることはない。アンリが秘密を共有している限り、セルヴィールの欲望も生き続ける。セルヴィールが若い頃、夫に犯されるという想像の元で夫を欲望したように、悪夢の中で、アンリに犯されるという想像の元で。