介護放棄について

 

  

ボッシュの絵画を部分的に撮った

日本に帰ると、殺人事件のニュースを聞かない日はない。 

夫の介護を放棄して、死なせた事件について考えてみた。おそらく、夫が病に倒れ、一生懸命看病に努めていたのだろう。時間と共に、その気持ちがうせ、厄介者となった。今が、介護システムが出来て、昔のように家族に全ての負担をかけなくてすむようになっているのに、どうして助けを求めようとはしなかったのか、と誰でも思うだろう。これが、ヨーロッパやアメリカでなら、家族が世話をすることなど、最初から考慮に入れなくても、なんら恥じることも、世間体が悪いこともない。個人として自立が出来ているからだが、その歴史は、12世紀に遡るらしい。日本には、個人がなかった。戦後自由教育が入ってきたが、依然として、家族の世話は家族でするのが美徳であり、それが家族として当然の事もように、世間で見られている。戦後の教育を受けた人間は、昔のような教育を受けてきた人間とは

まったく違うのだと思う。最近、見殺しにしている人達は、戦後の教育を受けて育った人達だ。自由と

責任、というものが浸透せずに、身勝手な自由主義教育がメソッドとなって成長した世代だ。

それ以前の、お年寄りの場合、看護に疲れ、連れ合いを手にかけても、自らも死を覚悟している。

迷惑をかけたくない、という思いがものすごく強い。武士の魂が残っている人達。公的看護制度があるのに、それを使おうとしない人達の悲劇。

 

 こういう例は、人間に対して失礼かもしれないが、と前置きさせていただいて、

子供の頃、弟が、やせ細った捨て犬を家に連れて帰ってきた。その犬は、生涯、家族の為に忠実に

働いてくれた。メス犬で、毎年子供を生むので、もらってもらうのが一苦労だったが、貰い手のない子犬がいて、母親とずっと一緒にいた。やがてその犬も出産するようになった。その犬は、子供を産み落としても、何も出来ない。母親が、全ての工程をかわりにやってあげている。娘は、じっとしているだけ。母親が面倒を見てやっている犬は、甘えているのか、まったく自立できないでいる。

 「めんどうくさかった」という奥さん、「このまま放置すれば死ぬのがわかっていて、ほっておいた」という息子。「世話は母親と兄がしていて、私は感知しない」という弟。自由だけが先走りして、責任という分野を教育出来なかった、日本の教育のひずみが生んだ、結果ではないだろうか。

 学校のいじめ、家庭内暴力、親子間の殺人、などなど。

 ヨーロッパでも、アメリカでも、自由民主主義が成熟するまでには、長い時間とすさまじい戦い、犠牲者も沢山出した。日本は、まだ、始まったばかりなのではないだろうか、と思う。