母のお針箱

弟が、二階から、箱を持ってきた。

一目見て、それが母のお針箱であることがわかった。

なつかしさと悲しさがこみあげてきて、涙があふれた。

母が今も元気で、頭がしっかりしていたなら、なつかしいわね、

で終わっただろう。

母が夜なべして、縫物をしていたお針箱。布のひっかけがついた、

3段の立派なお針箱。中に、着物のしつけ用のへら、糸切ばさみ、

つかいかけの糸や、つかなくなった衣服から取ったボタンなど。

母は夜遅くまで、このお針箱の前で働いていた。

このお針箱は、3段引き出しのついた、木造の大きなお針箱で母が欲しくて買ったものだった。

今、弟が裁縫をするようになって、使っている。

最近暇になったので、衣服のリフォームを楽しんでいる。

幅広の古いズボンを、今様に幅をつめたり、後ろポケットに、長財布が入るように中ポケットを付け直したりソファーのカバーを付けたり。

弟は、母使っていたお針箱の中にあるものを使って、母を愛しんでいるのだろう。

母がすぐ近くにいるけれど、弟はあまり行かない。

今の母の姿を見るのが辛いのだろう。

母が使っていた道具を使うことで、母の傍にいるようななぎさめになっているのだと思われた。

良く働き、いつも明るかった母。誰にも等しく愛を注いだ母。

優しい母。自分はいつも後回しで、人の幸せばかり願っている母。

誰からも好かれる母は、それにふさわしい人だから。

父は、母がいれば、誰もいらなかった。

母は、今も心配りが深くて、人を気遣うことは変わりない。

優しくて、笑顔が素敵だから、大好き、と施設の職員達

は言ってくれる。

記憶が日々薄れていく中で、母の中核は失われることはない

のだけれど、

母と話が出来ない悲しみは深い。

テレビで、トムハンクスの映画が映っていた。

母と一緒に映画館で観た映画。

トムハンクスの後ろ姿がかっこいいわね、と言いあった。

ああ、あの頃は元気だったのに、悲しみが襲う。