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、FUJITA

近隣の人が、小栗監督のトークがあるから、行かないかと誘いに来た。丁度、予定のない日で、お掃除しようと思っていた所。

さばいているが上がってもらった。

午後3時過ぎからなので、ありあわせの菓子をだして、話を聞き、車で迎えに行くからと言って、一旦帰ってもらった。

会場は、売布にある、ピピアという映画館、

映画の好きな人のために、厳選した映画を、比較的長い期間

上映している。わたしは初めて。

フジタは、みたいと思いつつ、まだ見ていなかった。

開場に着くと、満席に近く、最後列の席が、3席残っているだけ。話はすでに始まっていた。映画の技法に関する話から、

内容に移って行った。

枠の中に切り取られた、非日常の世界が映画であり、それはショットの積み重ねで出来ている。フジタは、200くらいの少ないショットでできている。

物語の筋を追うようなわかりやすい映画を作る気がないこと、わかりにくい映画が作りたい、と。

監督の話は、良く理解出来た。

参加者からの質問に答えている小栗監督の話は、なおさら、フジタを見たいという思いに。

ほとんどの人達はすでに映画を見ているのに、私は逆。

最初の、映像から、私は強く惹きつけられた。セピア色の、パリの風景。

映像のショットの一つ一つが、枠にはまった絵画のように、美しい。動く絵画。

私には、とても分かりやすい映画だった。モンパルナスのカフェに集まっている画家や娼婦や踊り子。

ユトリロを除いて皆エトランジェ。知っている画家の名前が次から次に出てくる。

フジタという存在を、物語ではなくて、いくつものスナップ写真を合わせて、浮かびだすという方法を取っている。

職人としてのフジタを強調している。職人の技として、中世美術館のタピストリーが使われているが、小栗監督が使いたかったという気持ちがよくわかる。素晴らしい職人の技は、永遠にあせることはなく、見る人を魅了している。

ファンタジーの偽りの世界。現実のものではない、創造の世界。

カテドラルの石にひれ伏す高光太郎の詩を、あこがれを持って読む後輩の画家。その詩には関心ないフジタ。

日本には、独自の文化があり、西洋に劣るものではない、と自負しているフジタは、日本画の面相筆の繊細で修正のできない線を描くこと、白さを際立たせ質感を強調する技法で、パリの寵児となる。

アポリネールの詩が使われ、流れる川のイメージは、「泥の河」や小栗監督のメインテーマになっている。最後に、フジタが描いた、悲惨な戦争での二枚目の絵画「サイパン島同胞臣節を全うす」が、川の水面下にゆらいでいる。

ランスにある、フジタの教会に描かれた、キリスト磔刑の絵画と、使徒の1人として、フジタの顔が映し出されて映画は終わっている。

お寺の鐘や鉄砲の素材になる、日用品の中から、フジタが茶瓶を取って見つめるシーンは、フジタがものに執着し、職人の仕事に愛着と価値を持っていたことを表現している。毛糸で絨毯を補修するシーン、ミシンを踏むフジタ。

フジタは、戦争画を描いたことを後悔していない。日本の誇りである、職人技の最高のものを描いたことへの誇りを持っていた。その絵画は、フジタにとって、神業に匹敵する。現実の世界ではなく、虚構の世界であり、キリストの磔刑像に匹敵する。人々が祈りひれ伏す、キリストの受難の像や絵画に匹敵するものだった。

戦後のフジタの絵画は、フランス人形や猫、子供の絵画。フジタは絵画の中に身を投じて、戦死したのかもしれない。自らをキリストに「同化して。情熱の輝きは失せて、戦後のフジタは、その亡骸を抱きながら、日本人からの決別、エトランジェとして、パリに生きるフジタが切望し続けたのは、フランス人として、別人として生きることだった。教会の片隅に、自らの顔を描いたフジタは、最後までエトランジェだった。虚構の絵画の中に、自分の顔を描いているのは、そこにいない現実を意味しているのではないだろうか。

映像の美しさ、悲しさは、流れる川のように、私の心にも流れていく。