映画「フィラデルフィア」

      

 

 この所、アカデミー賞の特集映画をテレビで見られるので、

毎夜、映画を見て過ごしている。

 昨夜は、「フォレスト、ガンブ」を見ていた。頭痛がひどくて、

我慢しながらも、途中一瞬、眠っていた。

 先日は、何回も観ているから、いいか、と思いながらも、新たなる

感動を受けたのは、「フィラデルフィア」だった。

 私は、フォレスト、よりもずっと「フォラデルフィア」の方が心に残る。

フィラデルフィアに行ってみたいという思いは、この映画をみたからだ。

まだフィラデルフィアに行く機会がないけれど。

ニューヨークから、電車でも2時間くらい、飛行機なら40分もあれば行けるのに。

 この映画は、エイズにかかった弁護士アンドリューは、所属する弁護士事務所から

不当に解雇された事で、勤めていた弁護士事務所を訴える。エイズへの偏見から、

引き受けてくれる弁護士がいない。デンゼルワシントン扮する黒人弁護士と共に、

名うての有名弁護士と戦うという、アメリカ映画が好きな裁判劇だ。

 私がこの映画に深く感動するのは、人間の弱さと優しさが、ホモ愛のバックボーンに

なっていることだ。

 弱さは優しさに通じるものだ。愛を求める心は、心の不安や寂しさが、人間が孤独だから求めてやまないもの。

  アンドリューは、フィラデルフィア、というニューヨークから距離を置いた、家族愛に恵まれて、友人達に囲まれて育った、優しくて繊細な子供だった。

 彼の愛情は、同性の友情的な親しみやすさと安心感のあるホモに向けられる。それが正当化されていない社会の中で、彼は隠すつもりはなかったけれど、キリスト教主義的な偏見社会では、影の存在で、どこか後ろめたさを強いられていた。

 弁護士への憧れは、「自分が正義を決断し正義の道を歩んでいると実感できること」だ。

尊敬する事務所のベテラン弁護士は、法の正義の目標的存在だったはず。

 この世の中から1000人弁護士が消えたら、「世の中はずっと良くなるだろう。」という台詞は、弁護士が、いかに不正と偏見と強欲に満ちているかということをあらわしている。

同性愛に対して、偏見を持つ人は、愛を知らない人達だ。

 アンドリューの家族は、彼の仲間達は、彼を愛し、彼を励まし、彼の支えとなっている。

 アンドリューへのパートナーの誠実で変わらない愛は献身的で、互いの信頼の元に二人三脚で傍に寄り添っている。

 彼らが同棲しいていた頃、アンドリューは、ホモがたむろする映画館に入って、パートナーへの裏切りともいえる行為をしたことが、裁判の席上で持ち上がっても、彼の愛は変わらない。

神が与える試練は人間に幾つもの苦難。耐えがいほどの苦しみや罰を与えるけれど、

不安の恐怖の中、孤独の扉をこじ開けて、叫ぶ。愛するのは、この私。愛は私、神は私そのもの、私は神になる。

カラスの素晴らしいオペラに、この映画の主題は言いつくされる。

 フィラデルフィアの主題歌が、小雨ふるフィラデルフィアの孤独のように流れる。

けだるいような静かな声で、抑揚の繰り返し、薄い、霧のようなメロディーで。

「不安な僕が愛されていると感じる時、僕の心は安心して安らぐ、。」

見終わってから、始まる映画。感動がいまでも持続していく。

 愛の形は、様々。孤独な心を受けとめて、優しく包んでくれるのは、愛、神の愛のように、全てを受け入れる穢れない愛の形。愛するのは私、私こそ神、ジャスティス、

偏見のない正義。